新装されたJR女川駅前商店街。観光客に人気(提供:高崎氏)

宮城県仙台市以北の被災地

東日本大震災から6年。大津波に襲われた宮城県内の沿岸部自治体の復旧・復興事業は進んでいるだろうか。「箱もの」の造成・再建を急ぐあまり、将来の産業を導く社会基盤整備や投資を等閑視してはいないだろうか。被災者や肉親を失った方々の心のケアは進められているだろうか。

本年5月末、被災地の復興事業や被災者の生活再建などの現状をつかみ、その問題点をさぐるため同県の被災地を中心に再び足を運んでみた(復旧は原則として被災前の姿に戻すこと、復興は被災前の姿に戻すことが困難な場合に新たな姿を構築すること)。

政府発表によると死者は1万9533人、行方不明者は2585人(本年3月現在)にのぼり、犠牲者総数が2万人を超える大惨事となった。(この間、復興大臣の「(被災地は)あっち(東北)でよかった」との驚くべき発言が報じられた。怒るよりも呆れた。情けなくなった)。今回と次回の2回に分けて、東北の復旧・復興現場を報告する。

1.女川町:被災率最大、人口減と復興

6年前、女川(おながわ)町の被災現場に立って言葉を失った。荒涼とした光景が眼前に広がった。女川を襲った津波の高さは18m。見渡す限り津波に襲われたがれきの山、中心部には1戸の住居も残されていなかった。町立総合病院は高台(高さ16m)にあったが、津波は1階まで襲ってきた。壊滅状態だった。同町の被害状況は、1万14人(被災時人口)に対して、死者・行方不明者は827人で、犠牲率8.3%。建造物6511棟に対して、全壊・流出は4316棟・半壊などは1241棟で、被災率は85.4%に上った。東日本大震災における被災率最大の自治体が女川町であった。

女川町の復興推進課長・福原政一氏と参事・伊藤富士子様に説明役をお願いした(伊藤参事は被災当時、町立病院の職員として勤務しており、津波襲来を体験した)。

女川町の主要産業は漁業である。サンマの水揚げ量日本一を誇っている。被災以前から、銀ザケ、ホタテ、カキ、ホヤの養殖も盛んだった。水産加工場は約6割が復旧している。(昨年の地元漁協生産額は64億円、魚市場水揚げ額は80億円で、いずれも震災前の金額に回復しているという)。最大の難問は町の人口が大きく減少を続けていることで、6700人(5月現在、以下同じ)と4000人近く減少している。人口減少率は全国ワーストである。

「復興まちづくり」(基盤整備)のポイントは「将来を含めての人口減少を見据えた都市構造」である。海側から三段構造(ひな壇構造)に構築した津波に強いまちづくりだ。従来の海岸部が第一段、それより4m高くした区画(第二段、津波防波堤の高さ)に役場・商業用地・工業用地・教育機関・駅など都市機能を集中させる。海岸部より10m盛り土した区画(第三段)を居住地とする。「減災と海の町の意識を両立させた復興計画」である。居住地を中心に説明の骨子を列記する。

・住家は森林を開発した高台の移転地となる。全部で14地区あり、造成工事は本年5月に終わった。
・高台造成は復興交付金を充て、土地を買い取りしながら実施してきた。
・復興計画では、中心部から高台に移転させているので、中心部に再び人が集まるよう公共施設・商業施設を配置している。
・高台移転の用地取得や復興計画の合意形成は大きな問題なく進んだ。地元商工会は「私たちは口は出さないから、あなたたちが進めてほしい」と言ってくれた。
・復興の進捗率は約68%(災害公営住宅完成率)と宮城県平均より少し遅れている。遅れの要因は高台移転のため、用地を取得し山を削って工事を進めているので日数を要している。

女川町は「にぎわい再生」を掲げている。新装なったJR女川駅を軸に駅前商業エリアでテナント型の店舗が賑わいを見せている。観光開発も復興のキーワードの一つである。基幹産業の水産加工業も着実に回復している。問題は人口をいかにしてとり戻すかだ。