<日本地震学会を創設>

ミルンが来日中特にその実績を残したのは、専門の鉱山学というより、むしろ地震学の分野であった。世界有数の地震国でありながら、ただ天災・天罰とあきらめて、何の対策も講じなかった日本に、地震の科学的研究を目指した地震学会を創立して啓蒙し、「日本の地震学」から、さらに「世界の地震学」へと展開する、その創成期に指導的役割を努めたのである。

近代科学としての日本の地震学は、ミルンによって生み出され育てられ、ユーイング(James Alfred Ewing、1855~1935)、グレー(Thomas Gray、1850~1908)らに引き継がれ、さらに彼らの助手だった関谷清景におよび、大森房吉、今村明恒によって体系が整えられ、今日の水準に達することになった。

彼はこの研究の第一歩として地震計の創作に専念し、ついにミルン地震計を完成した。たまたま1880年(明治13年)2月22日、強烈な地震が京浜一帯を襲った。この時、銀座レンガ街の建設に大きな役割を果たした東京小菅監獄のレンガ製造所の120尺(1尺は約30センチ)のレンガ造り煙突の倒壊をはじめとして各所に大きな被害があった。彼はまず被害の大きかった横浜に赴き、内外多数の援助を求めて、世界最初の地震に関する会合を催し、同年3月31日、内外協同の日本地震学会が設立された。この時、ミルンは自ら幹事長となって数多くの論文を提出し、12年の長きにわたって、学界の経営に、また地震の研究調査に没頭した。

ミルン水平振子地震計(重要文化財、国立科学博物館蔵)

この間、ミルンは彼の地震計を大学構内に数カ所、観音崎灯台、剣崎灯台、犬吠埼灯台などに頼んで設置し、観測した。灯台その他の地震計設置の場所から収集した資料は、彼によって震源、上下動、水平動と分析され、研究の根元となった。この観測に灯台を選んだのは、時刻の正確さが一番必要だったからである。当時はまだ標準時の制度がなかったが、幸い灯台には日時計が設置してあり、日々地方時を正すことができたことによるものである。

この好結果はただちに大きな反響を呼び、イタリアがまず日本にならい数百の観測所を設けてミルン式地震計を備え、さらに全世界に普及するありさまとなった。このミルンの活躍がやがて濃尾地震の翌年、1892年(明治25年)政府が震災予防調査会を設け、大規模な系統的な地震研究を開始する一つの契機になったのである。ミルン自身に対して政府は1890年勅任(天皇勅任の高級官吏)待遇の稟申(りんしん)をしている。もとより了承された。

ミルンの在日中の最大の地震は、1891年(明治24年)の濃尾の大地震であった。この時の被害は当時ようやく発達期にあったレンガ造りの土木建造物において特にひどく、外来技術に深刻な反省をもたらした。ミルンは被災地をくまなく踏査し、種々有益な論文を発表した。1892年(明治25年) 「THE GREAT EARTHQUAKE OF JAPAN」(濃尾地震の被害についての写真集)をウィリアム・K・バートンとの共著で出版する。                  

彼は日本内地はもとより、北海道、千島方面からオーストラリア、フィリピン、ボルネオ、台湾、朝鮮半島などの火山を観察して、地震との関係を解明し、そのつど地震学会、イギリス理学奨学会に寄稿した。その論文数は100篇超えるという。このような休暇を利用しての全国踏査旅行中の業績の一つに、1878年(明治11年)の北海道小樽の手宮洞窟の古代文字の調査と函館の浅利坂貝塚の発掘がある。1894年(明治27年) 「ミルン水平振子地震計」(重要文化財、国立科学博物館所蔵)を制作する。