<地震に驚き、関心を抱く>

「朝食に地震、昼食に地震、夕食に地震、睡眠時に地震、これでは誰だって地震に関心を持たない訳にはゆかぬではないか」。これは明治期での理工系エリート国立大学・工部大学校(東大工学部前身)の金石地質および鉱山学教師としてイギリスから招かれたジョン・ミルン(John,Milne、1860~1913)が、来日早々恐怖をまじえて漏らした言葉であり、彼の専門の鉱山地質学と並行して、日本の地震学ひいては耐震建築にまで貢献するに至ったきっかけである。明治初期、お雇い外国人技術者として、「災害大国」日本の地震学の基礎を築いたミルンは、在日した外国人の中でも大いに注目されていいと考える。(以下「お雇い外国人 建築・土木」(村松貞次郎)、梅渓昇氏図書・論文を参考にし、一部引用する)。

ミルンは、イギリスの港湾都市リバプール出身の鉱山技師であり、後年地震学者、人類学者、考古学者としても知られるようになる。東京帝国大学名誉教授であり、日本における地震学の基礎を創成した恩人である。

1875年8月、工部大学校に招かれることを約束した25歳の若きミルンは、その赴任のコースをシベリアに求めた。8月3日、イギリスのハル港を出帆し、スウェーデン、ノールウェー、フィンランドを経て、ロシア首都セント・ピーターズボルグ(現サント・ぺテルブルグ)に出て、その後欧亜間の通商路であったシベリア鉄道の路線を経由してウラルに出た。さらに外蒙古、内蒙古を過ぎ、万里の長城を越えるという大冒険旅行をして上海に到着し、ようやく東京に着いたのは1876年(明治9年)2月24日であった。この11カ月間の未開不毛の地での大冒険旅行の苦しさは筆舌に尽くせないものがあったに違いない。が、鉱山学者として得るものも多かったであろう。

同年3月8日付、工部省工学寮(工部大学校前身)地質学鉱山学教師の辞令を得たミルンは、当初3年の期限で1カ年英貨800ポンドの割合をもって日本銀貨にて月末支給という約束であった(青年研究者には破格の高級である)。宿舎にあてられた工部大学校の教員用レンガ造り官舎はまだ完成していなかったため、一時近くの山口屋敷(今のアメリカ大使館の地)に住むことになったが、その赴任第一夜に地震に襲われ、家屋が音を立てて動揺するのにすっかり度肝を抜かれ、同時にまた非常に興味を持つようになった。非凡である。

工部大学校では都検(今の学長)ヘンリー・ダイヤー(スコットランド出身の土木工学者)の下で、鉱山学、冶金学を教授し、さらに1886年(明治19年)工部大学校も加わって帝国大学が成立すると、その工科大学に教鞭をとった。1895年、満期帰国の時には、その功労によって勲三等旭日中綬章が与えられ、恩給年金1000円をたまわる光栄に浴した。(今日の1億円前後)。