晩年の漱石(筑波大学附属図書館文献)

平川祐弘東大教授の「漱石論」

「漱石論」は、没後100年を超えた今でも、お堅い専門図書・研究論文から末裔によるくだけた読み物に至るまで屋上屋を架すといえるほど氾濫している。まさに「漱石産業」の観を呈している。本稿を書くに当たって注目した2人の学者の「漱石論」を考える。いずれも漱石の「理科的な頭脳」に着目した名論卓説である。まず「内と外からの夏目漱石」(平川祐弘東大教授・文学者)の「理科的な漱石」から引用したい。

「夏目漱石(1897~1916)は理科的な頭脳の持ち主であったといわれる。『吾輩は猫である』の中では水島寒月に『首縊(くびくく)りの力学』の講演をさせ、『三四郎』の中では野々宮君に『光の圧力』について語らせている。寺田寅彦の『夏目先生の追憶』によれば『首縊りの力学』は1866年の『フィロソフィカル・マガジン』にレベレンド・ハウトンというダブリンの教授が書いた珍しい論文を寅彦が見つけ、それを漱石に用立てたものであるという。漱石研究家はもうその原文に当っているが、もとは純粋に学術的な論文で、別にふざけたものではないらしい」。

漱石と門弟寺田寅彦の師弟関係を越えた敬愛の念についてはつとに知られている。

「漱石が理科的な頭脳の持ち主であることがさらに強く感じられるのは、彼の『文学論』や『文芸評論』においてである。漱石の東京帝国大学での講義は理屈っぽくて、前任者のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の観賞的なエッセイ風と対照的であったために、学生の評判は悪かったといわれている。しかし(平川教授が)60年後に(東大)教養課程で漱石の『文学評論』(18世紀英文学論)を取り上げてみたら学生は結構面白がった。120年後に取り上げてみてもきっと面白がるだろう」。
「とくに理科系の学生で漱石の発想に共鳴する人が多い。漱石の理詰めな推論に我が意を得るからだろう。それに漱石の文章は『文学評論』のような学術論文であっても、隅々まで生き生きと活発で面白い。18世紀的江戸文化で育った漱石には18世紀のロンドンの都会文化がよくわかったのだ。引用した英文の日本語訳は(門下生・作家)森田草平に下訳させ、それに縦横に手を入れたといわれるが、達者なものだ。徳川時代の風俗との類推で当時のイギリス社会を浮かび上がらせている。日本人が1700年代のイギリスについて著わした最良の書物はいまなお漱石の『文学評論』なのではあるまいか」。

漱石の<理詰めの論法>に加えて<卓越した文学的感情移入>に私も深く共鳴する。

「漱石はその第4編でスウィフトを論じたが、その作品『ガリバー物語』の空想が自然科学的に緻密に計算されていることに注目している。
『最も驚くべき想像は、彼がラピュータ島の動くことを説明した所で、それを図入りで遣っているから偉い。(図と説明略)まるで幾何学の講義を聞く様である』。
漱石はスウィフトの科学的態度が印象に残ったと見え、後に『ポーの想像』という談話でもその点に言及している。『例えばスウィフト(Swift)の小人島の住人を6インチであるとして置いて、其(そ)れを持主とする小人島の物品器具、即ち火鉢とか皿とかは、皆其の6インチに比例して大小が出来ている』」。

教授はこう論じた上で、<漱石の科学技術認識と文学の関連>について指摘する。

「学生時代に英語で幾何や代数も習い、はじめは建築家を志望したこともある漱石は、スウィフトを読んだ時、自然科学的知識も使い様によっては文学の材料となる、ということに気づいたのにちがいない」。

漱石の芸術的感性と自然科学に対する並外れた理解を衝いた鋭い指摘である。漱石作品には科学者が登場し、科学理論が紹介されている場合が、同時代の作家に比べて格段に多い。