「英文日記」の意義

嘉納は外遊期間中「英文日記」を記している。嘉納が語学の才能にたけており、英仏独3か国語、中でも英語は翻訳を手掛けるなど読み書き会話に秀でていたことはよく知られている(生涯の外遊は13回に上る。当時としては異例である)。

筆者(高崎)はこの「英文日記」の原文を読む機会を得ていないが、「嘉納治五郎」(加藤仁平)に和訳文が詳述されている。同書から適宜引用することにしたい。ストックホルム滞在中の記述を中心とする。

「明治45年6月29日(土)、明るい夏らしい日である。6時起床、これを書く。
<肉体の鍛錬>日本人を強い健康な人とする方法として、我々が先ず為すべき事は、鍛錬を好むようにする事である。そのためには誰にでも出来るような鍛錬を奨励する必要がある。これは、言うまでもなく、跳ねたり走ったりすることと共に歩くことである。更に水泳、柔道、その種のものとして剣道がある。人々は屋内スポーツと共に、屋外スポーツにも努めなければならない。柔道・剣道を親しみやすいものとする方法が工夫されねばならぬ。…」「午後、ドイツとスウェーデンのフットボール(サッカー)の試合を見る。スウェーデンが負けた」。嘉納が目前の競技の勝敗だけでなく、日本人の将来について体育全般に強い関心を示していることがわかる。
(筆者注:嘉納はこの後もフットボールやテニスの国際親善試合をたびたび観戦している。強くひかれるものを感じたようである。関連書物を購入し欧米チームのコーチに指導方法も質問している)。

「7月1日(月)、6時頃起床。町に買い物に行く。英スウェーデン辞典、医学整形外科的体育(図書)、万年筆を求む」
(筆者注:医学一般や整形外科学の専門書をしきりに買い求めている。スポーツ医学に強い関心を抱いている。時には柔道も披露している)

「7月6日(土)、今日は競技の開会式の日である。国王夫妻がスタジアムに来られた。われわれは国王をスタジアムへの道に迎えに出た。その後行進が始まった。私もそれに加わった」
(筆者注:初参加の日本に加えて28カ国、3282人の各国代表がABC順に、先頭に国旗をささげてユニフォームも美しく入場した。日本選手団の入場式には金栗がNipponと書かれたプラカードを、三島が日の丸の旗を持って前列に並び、2列目に嘉納IOC委員、大森兵蔵、田島錦治(京大助教授)とスウェーデン日本公使館のスウェーデン人書記が続いた。選手の服装は三島が白の半袖のユニフォームに黒のソックス、白の運動靴、金栗は同じユニフォームに黒足袋で、ユニフォームにはいずれも日の丸のマークを着けていた)
行進の後、スウェーデン体操があった。男も女も非常に立派であった。100メートルの予選が17組に分かれて行われた。三島は第16組に出場した。彼はほとんどいつもの通りに走ったのだが、他の選手がすごく早いので彼は予選で失格した。レストランで昼食をする。帰宅しトルコの委員セリニシリベイを待つ。彼は来た。彼と王のガーデンパーティに行く。午後4時14分。午後6時半に帰り夕食。田島助教授、三島、金栗らと水泳を見に行く。午後9時半頃帰る。体を洗い、室内でちょっと体操をし、11時頃寝た」
(筆者注:嘉納は水泳に強い関心を示す。彼は参加国の代表や外交官らとも進んで交流している。晩餐などの懇談経費は嘉納の自前であった。彼は交際交流の先駆者であった)

「7月11日(木)、夕食後一人で水泳を見に行く。一旦帰ってからオリンピック組織委員会の招待でオペラに行く。オペラを見ている間に頭に浮かんだこと。
『美しい眺めや良い音楽等を楽しむ喜びは、ちょうど我々が、筋肉を使うことに依り生ずる喜びが、肉体鍛錬の結果であるのと同じように、ある種の知的能力の鍛錬の結果である。我々が舞台を眺めて喜びを感じ又楽しみを感ずる理由は、知的鍛錬から生ずる満足感である』」。ここに嘉納は肉体鍛錬と同じように知的鍛錬から生じる喜びを見出している。

「7月14日(日)朝、各国の人々が集まり、金栗の応援について相談する。午後1時半頃、競技場へ行く。80人以上に混じって金栗がマラソン競技にスタートする。不幸にも15キロ行ったところで心臓が苦しくなり走るのをやめた。6時半頃、帰途、途中(日本)公使館でお茶を飲む」。
(筆者注:マラソンは競技場から折り返し点ソレンツナに至る往復42キロのコースで行われた。石畳の多い、険しい起伏のある困難なコースである上に、この日は炎熱焼くがごとき猛暑であったので、出場者68人中落伍者が34人にのぼった。中でもポルトガルのラザロ選手は日射病で倒れ、翌日病院で死亡した。金栗は10キロまでは好調であったが、16キロ当たりで歩き始め26.7キロでついに棄権した。落伍したのである。近くの農家が手当てをしてくれたが、一時行方不明と騒動になった。三島も金栗も完敗したが、嘉納の心は動揺していない。金栗たちを慰めた嘉納の言葉を金栗は終生感謝していた。「嘉納先生は『お前達2人が両種目とも破れたからと言って、日本人の体力が弱いわけではない。将来がまだある故、しっかりやれ』と言って笑いながら元気づけてくださいました。私達はこのお言葉に本当に感謝して『またやるぞ』という気になりました」)。

嘉納はオリンピック初参加を通じて国際平和主義を確認した。同時に、欧米式のスポーツ指導法も習得した。