企業では一般に 「想定外のリスク」は「起こらない」と整理していると思われます。「起こらない」こと に対しては、もちろん対策などは立てません。東京電力の現在の状況は、リスク発生時のキャッシュフロー・リスクマネジメントの重要性を改めて大いに 認識させられる事態です。

昭和の半ば過ぎまでは自己資本が十分蓄積されていない企業が多く、企業が発展するためには銀行か らお金を借りなければなりませんでした。まだ会計監査制度も十分でなかったので、粉飾決算が横行し、企業の損益の実態を明らかにすることは銀行員の大事な仕事でした。

銀行に勤務していた時、 企業の分析 ・ 実態の把握に苦労した私の結論は 「資金繰り ( キャッシュフロー)はごまかせない」 ということです。

 どんなに巧みに損益計算書や貸借対照表を粉飾しても、業績が赤字になれば資金繰りは間違いなく困難になります。お金(キャッシュ)は企業の血液です。血液の流れが不足し、ついには止まったら、即ち資金繰り(キャッシュフロー)が破綻すれば企業の生命は終ります。

■アイシン精機の事例
私がキャッシュフロー・リスクの重要性を最初に実感したのは、平成9年 (1997年 ) 2月1日に起き たアイシン精機刈谷第一工場火災事故の分析でした。

火災により、プロポーショニング・バルブという、 自動車のブレーキの重要な部品の供給がストップし、トヨタは3日間にわたり、やむなく操業を停止し、 他の取引自動車会社にも大きな影響を与えました。

アイシン精機は代替生産の体制を確立するなど復旧は予想外に早く、4月末にすべての内製化を完了し、トヨタグループの事後的な対応力の強さを示した好事例だと評されました*1。その際私は事故の 財務的なインパクトを有価証券報告書のデータで分析しました。

*1 1997年 予防時報 191 森宮康  「部品工場の火災とリ スクマネジメント」

1.業績


事故期の売上は前期比8.8%増、経常利益は前期 比22.3%の大幅増益で、事故の損失78億300万円負 担後でも58億700万円の利益を計上しています。事 故は起こったが業績自体は順調だったということで す。

2.キャッシュフロー実績

アイシン精機の事故期の業績は増収・増益ですが、 営業活動によるキャッシュフローは前期比80億6100 万円(事故前期比40.5%減)マイナスの大幅な悪化 になっています。私は業績が順調だったのにキャッシュフローが悪化したのは何故だろうかと思いまし た。

企業を分析する場合、あたかも探偵がいろいろな手掛かり・情報を基に真相にたどりつくのと同じよ うな論理力(思考能力)・構成力・イマジネーションが必要です。さらに論理的な推論を加えることも 必要となります。

念のため貸借対照表の各勘定科目の増減を見たと ころ、売掛金が前期末比118億6700万円、買掛金が 前期末比102億6500万円増加していました。ともに売上の伸び率以上に大幅に増加しています。通常売 掛金の異常な増加は期末近くに大きな売上を計上した場合に生じます。買掛金の異常な増加は期末近くに大きな金額の仕入れをした場合に発生します。そこで相手先別の売掛金の増減を調べてみるとトヨタへの売掛金が前期末比69億1400万円増加していました(当時の有価証券報告書の開示内容は非常に詳 細でした) 。古い銀行員としては、この分析結果からは、アイシン精機は「売上高・利益のアップを図 るため、期末近くにトヨタ向けを中心に売上増加を図った」のではないかと推理しました。何故こうし たことをする必要があったのだろうかと調べてみました。すると、事故翌期末に償還期限の来る転換社 債147億8700万円があったことが判明しました。

転換社債というのは、一定の価格で株式に転換できる権利の付いた社債です。社債発行時に転換価格が決まっています。株価が転換価格を上回っていたら株式に転換した方が利益になりますから、社債権 者は株式に転換します。そうなると、社債を償還しなくて済みますからキャッシュフロー上はプラスになります。

事故発生前日の株価は1850円、事故翌日の株価は 1770円、事故直後、同社株はストップ安になるまで叩き売られました。

社債の転換価格は1650円でした。事故発生の結果、同社の業績に不安が生じ、株価が転換価格以下に低落すれば、翌期末には社債を150億円償還しなければならなくなります。アイシン精機は生産復旧の早期化を行う一方、事故期の売上高、利益のさらなる増大を図って、株価の低落を防ぎ、転換社債の転換を維持するという財務戦略を立て、2月1日の火災発生以降、期末までに対策を講じたのではないか いうのが私の推理です。