クマとの遭遇は山歩きのあり得るリスク(写真:写真AC)

■その一言で楽しいはずの渓谷歩きが…

その日ハルトは、西丹沢の渓谷沿いの林道を歩いていました。しばらく行くと、林道がカーブする辺りで年配の登山者が血相変えてこちらにやって来るのが見えました。

こんにちはとあいさつする間もなく、そのおじさんは「出たよ、出た!」と叫んだのです。何のことかわからずハルトが困惑した顔をしていると、その人はさらに続けます。「けっこうでかいヤツだったよ。おにいさん、この先行くなら気をつけなよ」

人に告げずにはいられないインパクトのある出来事が起こったようです。イノシシか何かだろうと思いつつ詳しく尋ねてみると、この林道を1キロほど奥へ行った所で、大きなツキノワグマが山側のヤブから出てきて林道を横切り、沢へ降りていったとのこと。

「えっ、クマですか⁉」。これにはハルトもドッキリです。突然不安と不快が入り混じったとても嫌な気分になりました。おじさんは渓谷の上流にある分岐点から尾根に入り、山頂を目指す予定でしたが、それどころではなかったのです。話し終えるとそそくさと立ち去って行きました。

一人その場に残ったハルトも心穏やかではいられません。こうしている間にも、沢の方からツキノワグマがのそのそと這い上がって来るような気配すら感じます。君子危うきに近寄らず。今日の山歩きはやめた方がよさそうだ。そう独りごちながら、彼もまた踵を返したのでした。時々後ろを振り返りつつ、村のバス停までの距離がなんと長く感じたことか…。

■ヒデさんも持論を展開

何日か経って、ハルトは会社の山の先輩ヒデさんと昼食をとりながら、クマのことを話しました。ヒデさんはスマホで検索しながら言います。

クマが出てくることにも理由がある(写真:写真AC)

「クマってけっこう出没しているものなんだな。例えば東京都ツキノワグマ目撃情報の統計では、2021年度には85件の目撃情報があるぞ。クマの姿を見たとか、クマに襲われたとかよく聞くけど、前者は偶然のしわざだから避けられそうにないな。クマも人間と同じで食うためには自分の住処から外に出て動き回らなくちゃいかんからね」

「問題は後者だ。なぜ襲われるのか。いろいろと本から得た知識に独断と偏見も混じってはいるが、僕はクマの側にも言い分があると思う。一つはクマの餌場となるテリトリーに入り込んだから。山菜採りとかね。次は人間と鉢合わせになったから。大学時代の友人の話だが、テントで寝ていたら、夜中にクマにテントをペシャンコにされたとさ。どうもクマ公は食料の匂いを嗅ぎつけ、中を物色しようとして人の気配を感じ、びっくり仰天してテントをなぎ倒したらしい」

「3番目はクマの人間アレルギーもしくはストレス。途切れることなくハイカーが訪れる観光地化した山、例えば奥多摩などは稀に凶暴なクマの被害が報告されているね。うっかりクマを刺激したらおしまいだ。他にもダム放流の際の大音響のサイレンとか、森林整備で山中を行き来する工事車両、林道をツーリングする車やバイクの騒音などもクマにとっては煩わしいだろう。彼らは人間よりはるかに聴覚に優れているから、イライラが募って神経過敏になっている可能性もあると思う」