3.  スンニー派対シーア派の宗派対立

イスラム教は大きく分けて、スンニー派(Sunni)系とシーア派(Shia)系の2つの宗派がある。この2つの宗派の主導的な立場の国がサウジアラビアとイランである。ちなみに、全世界のイスラム教徒のうち、スンニー派系が87~90%、シーア派系が10~13%と言われている。

スンニー派とシーア派の分裂を紐解くと、下記のようになる。イスラム教の創設者であるムハンマド(Muhammad ibn `abdullah ibn `abd al-MuTTalib:570頃~632)の没後、正統な代理人として、4代にわたるカリフ(Caliphs)時代(正統カリフ時代)においては分裂はなかったが、4代目のアリー('Ali ibn Abi-Talib)の死後、シーア派系は4代目のアリー(妻はムハンマドの娘)の子孫がカリフであるべきとし、一方、スンニー派系は話し合いでカリフを決めるということで、分裂するに至った。

シーア派が多い地域はイラン、イラク南部、アラビア湾岸地域、アゼルバイジャン等が主であるが、イランが主導的立場となっている。但し、中東の2つの宗派が長年にわたり、対立していた訳ではない。対立を決定付けたのは1979年2月のイラン革命である。この革命はパフラヴィー(Pahlavi)朝のモハンマド・レザー・シャー国王(パフラヴィー2世:Mohammad Reza Pahlavi)の西欧的な国を亡命中であったシーア派の精神的指導者ルーホッラー・ホメイニー(Ruhollah Khomeini)を支柱とする革命勢力が打倒し、政教一致のシーア派国家であるイラン・イスラム共和国が建国されたことに端を発している。

これに対し、中東のアラブ国家はイラン・イスラム共和国からの「革命の輸出」に神経を尖らせた。特に、シーア派住民が多い地域は石油が豊富な地域と重なるため、これらの住民が多いサウジアラビアをはじめとする湾岸地域は、自国内での革命の可能性が増大した。そのため、自国内の過半数がシーア派の隣国イラクが1980年9月にイランに攻め入り、イラン・イラク戦争が勃発した。この戦争では、アラブ諸国がイラクを支援したため、アラブ対イランという構図の戦争となり、1988年8月まで続き、アラブとイランとの関係悪化は決定的となり、今に至っている。

メッカ(Mecca)、メジナ(Medina)という聖都を有し、スンニー派系の盟主であるサウジアラビアにとって、ペルシャ人の国で、シーア派の主導的立場のイランとの対立は、このようなことを背景としている。

このようなスンニー派系とシーア派系の覇権争いが近年における中東情勢に多大な影響を与えている。例えば、①のカタール断交は、カタールがイランとの良好な関係を構築したことが主因である。また、④のイエメンのシーア派系反政府武装組織のフーシ(Houthis)は、同派の指導者であるフセイン・バドルッディーン・フーシ師(Hussein Badreddin al-Houthi)が2004年にイエメン治安当局に殺害されたのを機に、反政府活動を本格化し、現在ではイエメン北部を実質的に支配している状況である。このフーシ派はイランから支援を受けていると言われ、暫定政権(スンニー派)を支援しているサウジアラビア領土内にもロケット弾を撃ち込む等、サウジアラビアと対立している。更に、⑦のレバノンの総選挙におけるヒズボッラー(Hizbollah)の大躍進は、レバノンのスンニー派の盟主であるサウジアラビアとの対立の結果として見ることができる。

更に、シーア派系のアラウィ派(Alawites)が政権の主体となっているシリアについては、イランが名実ともに支援を行っており、そのことが、レバノン情勢、更には国境を接するイスラエルとの緊張関係にも多大な影響を与えている。


4.  サウジラビア国内での改革の動きと積極的な外交姿勢

②のMBSの皇太子昇格は、サウジアラビアの近代化という面で特筆される。MBSは現サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ(Salman bin Abdulaziz Al Saud)国王(以下「サルマーン国王」)の息子(現在32歳)で、サルマーンが国王に即位した時(2015年1月23日)から次世代の王子として、注目を浴びていた。(MBSが国王に即位した場合、初代アブドゥルアズィーズ国王から見て初めての孫の代の国王となる)