建設業者の復旧作業(宮古市、国土交通省提供)

2011年の東日本大震災から7年を迎えた。大惨事を目の前にして、被災者の救出・支援をはじめ被災地の復旧・復興に、「生き地獄」の最前線に立って奮闘したのが地元建設業界である。彼らの危険を顧みない現場での作業ぶりは、地元自治体や自衛隊・警察・消防などの動きの陰に隠れがちであった。メディアに取り上げられたことも決して多くはなかった。だが、彼らの闘いがなければ今日の被災地の復旧・復興の姿はありえない。7年間、壊滅的被害を受けた現場で闘った地元建設業者の「生の声」をあらためて紹介したい。「あの時」を忘れないためである。また岩手県遠野市長・本田敏秋氏の「講演」は災害時の後方支援の在り方に多大な示唆を与えている。発言の一部を紹介し、関係機関などの再考を促したい。

宮城県建設業界の闘い

「俺たちが被災地で経験したこと、3.11 東日本大震災」(宮城県建設業協会発行)から一部引用する。

・武山興業(石巻市)は、地震発生直後、国土交通省東北地方整備局の北上川下流河川事務所に呼び出され、道路の応急復旧の要請を受けた。大津波で北上川左岸堤防が破堤したため、国道398が壊滅して集落が孤立していた。故郷を奪われた社員が24時間体制で作業を進め、わずか3日で道路を普及させた。
武山興業専務・武山利子さんは言う。「建設会社は、警察や自衛隊、消防よりも早く出動し、道路の啓開をしなければならない。夫である社長も自ら現場に出た。息子も一緒だ。家族として、本心は行って欲しくなかったが、国道395号を啓開しないと十三浜(石巻市北上町)の人たちが孤立したままになってしまう。社長は『24時間体制で啓開をやるぞ』と言っていたが、食べ物もなかった。総務の女性社員の家から米を提供してもらい、小さなおにぎりとたくわんを載せて出した。おにぎり1個で24時間だ。どこにも足らないのに、社員は我慢して口に出さなかった」。
・岩沼市沿岸地区では、遺体を洗う水もなかった。春山建設(岩沼市)では棺がないと言われ、ブルーシートで遺体をくるみ、物流会社の倉庫に安置した。建機オペレーターは大変だった。遺体を毎日見ることになり、精神的におかしくなった人もいた。
・阿部藤建設社長(南三陸町)・藤谷廣司氏は言う。「津波で自宅も会社も失ったが、南三陸町の地域建設業界として自衛隊と協力体制を構築。毎日打ち合わせをしながら、がれき撤去と遺体捜索を一度に行うことで、どこよりも早く初動対応を終わらせた。苦労をともにした自衛隊の方とは、今も交流がある」。
・発生から数か月後に火葬場が稼働すると、遺体を掘り越して火葬場に運搬した。田中建設田中幸博社長(女川町)は、「人生観が変わった」と話す。涙を流す家族を見る度につらかった。若い遺体を見る度に神も仏もないものかと思った」。
・小野良組土木部技師(気仙沼市)熊谷宗浩氏は言う。「火葬場が再稼働したため、公園に仮埋葬されていた遺体を掘り起こす作業を担当した。棺を開け本人を確認する遺族もいて、変わり果てた遺体を目にすることもあった。発生から3カ月間で90数人の遺体を掘り起こしたが、過酷な作業に食事がのどを通らず、74キロあった体重は60キロまでに落ちた」。