1. 今回の衝突事件の概要
2017年7月14日金曜日の朝、イスラエルのエルサレム旧市街(東エルサレム)の東側にあるライオン門付近で、イスラエル国籍をもつパレスチナ人青年3人が警備中のイスラエル兵士2人を銃撃する事件が発生しました。その後、この事件に端を発したイスラエルとパレスチナの衝突は拡大する様相を呈しています。これまでもエルサレムでは何度もこのような事件が発生していますが、この銃撃事件が起きたのが集団礼拝の日とされる金曜日の朝であったことから、イスラエル政府はこの日のイスラム教徒の神殿の丘(アル=アクサー・モスク及び黄金のドームを含む旧市街の聖地)での礼拝を全面的に禁止する措置を講じました(このようなことは1969年以来とのこと)。
更にイスラエル政府は、神殿の丘に入る数箇所の入口に金属探知機を設置しましたが、これに対しイスラム教徒が強く反発し、イスラエル各地でデモ・衝突が発生しています。イスラム教徒の礼拝日(金曜日)であった7月21日には、神殿の丘周辺には、数多くのイスラム教徒が集まり、礼拝、抗議デモが行われましたが、イスラエル治安部隊との間で衝突も発生しました。
この動きはヨルダン川西岸地区、ガザ地区にも波及し、これまで数百人以上の死傷者が発生しています。また、7月21日夜にはパレスチナ人がユダヤ人入植地に侵入し、3人を刺殺する事件が発生し、更に7月23日には、隣国ヨルダンのイスラエル大使館敷地内で、イスラエルへの反発が原因とみられる襲撃事件も発生しています。イスラエル政府は7月25日になり、神殿の丘の入口に設置した金属探知機の撤去を発表しましたが、今後、事態が収束するか否かは予断を許さない状況です。
今回の銃撃事件とその後の衝突拡大については、新聞・テレビ等で数多く報じられていますが、イスラエル・パレスチナについての予備知識がないと、十分に内容を把握するのが難しい点もあります。今回はこの事件をめぐる衝突拡大の背景についてまとめてみました。
2. イスラエルという国
イスラエルの面積は国連の発表では22,072km2とされていますが、この中には1967年の第3次中東戦争で占領・併合した東エルサレム及びゴラン高原も含まれています。この併合については日本を含め国際的には承認されていません。また、イスラエル政府はエルサレムを首都と宣言していますが、これについても日本を含め国際的には承認されていないため、欧米をはじめとする国連加盟の各国大使館はエルサレムではなく、テルアビブに置かれています(2017年1月の就任したトランプ米大統領は米国大使館をテルアビブからエルサレムに移転すると発表したが、パレスチナ自治政府及び国際社会からの反発により、移転計画は頓挫している状況である)。
国連の発表によると現在のイスラエルの人口は806.4万人ですが、今後もユダヤ人移民の受け入れが継続するとされており、2100年には1,728.5万人となると予測されています。宗教別人口はユダヤ教74.8%、イスラム教(スンニー派及びシーア派)17.6%、キリスト教2%、イスラム教(ドルーズ派)1.6%、その他4%となっています(米国CIAによる2015年推定)。
ちなみに、今回の銃撃事件で死亡した2人のイスラエル兵はイスラム教ドルーズ派の兵士であったとされています。ドルーズ派はイスラム教シーア派から派生した宗派であるとされていますが、スンニー派等のイスラム教徒はドルーズ派を同じイスラム教とは見なしておらず、その意味では非常に特異な立場にあります。また、ドルーズ派はイスラム教徒には珍しく、イスラエル政府に協力する宗派であり、他のイスラム教徒と違い、兵役義務もあります。そのため、パレスチナ人の多くがドルーズ派に不快感を持っているとされています。
3. イスラエルとユダヤ人
イスラエルは「世界3大一神教の聖地(エルサレム)を持つ国」、「地政学リスクの高い国」として、非常に大きな影響を世界に与えている国となっています。イスラエルは言わずと知れたユダヤ人を主体とした国家ですが、ユダヤ人の定義は様々で、人種的な定義ではなく、一般的にはユダヤ教の信者とする場合が多いとされています(イスラエルの帰還法(ユダヤ人と認めイスラエルの国籍を与える法律)でのユダヤ人とは「ユダヤ人の母親から生まれた人、ユダヤ教を信奉し又はユダヤ教に改宗を認められた人」とされている)。
ユダヤ教徒は全世界に約1,400万人いるとされていますが、イスラエルと米国に約600万人ずつ居住しているとされており、この2ヶ国で全世界の8割以上を占めています。イスラエルでは全人口の約75%がユダヤ人ですが、米国では全体の2%以下となっています。しかしながら、ユダヤ人の米国内での存在感は非常に高く、政治・経済・社会の全ての面で、米国を主導しているとも言われています。そのため、米国の対イスラエル政策は一貫して友好的であり、両国間の関係は緊密です。
4. 世界3大一神教の聖地エルサレム
旧約聖書のエイブラハムの時代から派生したとされるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の世界3大一神教の共通の聖地はエルサレムです。エルサレムは、ユダヤ教にとってはダビデ王、ソロモン王時代の神殿があった場所、キリスト教にとってはイエス・キリストが布教し、磔刑・復活した場所、イスラム教にとってはムハンマドが昇天した場所となっています。
特に東エルサレムにある旧市街(約10の門がある城壁に囲まれた地域)は神殿の丘と呼ばれる場所を中心に、イスラム教徒地区、キリスト教徒地区、アルメニア人地区、ユダヤ人地区に分かれています。その中心部にある神殿の丘には、8世紀初期に建立されたイスラム教で最も古いモスクの一つであるアル=アクサー・モスクの他、 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって重要な関わりを持つ聖なる岩を祀る黄金のドーム等があります。
この丘は当然ながらイスラエル政府が実効的に領有していることから、施政権はイスラエル政府が有していますが、アル=アクサー・モスクを含めた神殿の丘の管理は、イスラム教団体が有しており、その団体を支援しているヨルダン政府が間接的に管理を行っている等、イスラエルの建国以来の複雑な歴史を反映しています。
そのため、この神殿の丘を訪問する際には、イスラム教徒は全ての入口から入場できる一方、それ以外の宗教徒の入場は1ヶ所に限定され、無用な衝突等を避けるため、聖書の持込も禁止されています。また、イスラエル政府もユダヤ教徒の聖地である神殿の丘の西側の壁(嘆きの壁)付近で、これまでもイスラム教徒とユダヤ教徒の衝突が頻発したことから、神殿の丘については、イスラム教徒を優先し、無用な衝突を避ける姿勢をとっています。
現代史におけるエルサレムは1947年11月の国連によるパレスチナ分割決議で国際管理下におかれることとなりましたが、国際法的にも位置付けはあいまいでした。1948年5月14日のイスラエル独立に際して発生した第1次中東戦争の結果、1949年6月に双方が国連の停戦勧告を受け入れ、西エルサレムをイスラエルが、東エルサレムをヨルダンが統治することとなりました。
現在、イスラエル政府は東エルサレムを含むエルサレム市を首都と宣言していますが、旧市街を含めた東エルサレムは1967年の第3次中東戦争で初めて占領した場所であり、それ以前はユダヤ教徒でも、ヨルダン政府の許可がない限り、嘆きの壁に行くことは出来なかった場所です。そのため、現状でも旧市街にある嘆きの壁に対するイスラエル人の思いは非常に強いものがあるとされています。なお、旧市街はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の巡礼者、観光客の最も多い場所であり、1981年には「エルサレムの旧市街とその城壁群」としてユネスコの世界遺産に登録されています。
エルサレムはイスラエルが首都と宣言していますが、パレスチナ自治政府も東エルサレムを首都と主張しています。そのため、中東和平交渉において、ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地問題と並んで、大きな障害となっています。
5. 地政学リスクの中心地イスラエル
イスラエルの歴史については、数多くの文献、小説、映画等でも取り上げられていますので、ここでは詳細な説明は省きますが、紀元前20世紀以降から現代に至るおおよその歴史は以下の通りです。この波乱に満ちた歴史が、イスラエルを地政学リスクが最も高い地域に押し上げていると言えます。
エイブラハムによる移住
⇒12部族時代
⇒エジプトへの移住
⇒エジプトからの期間(出エジプト)
⇒イスラエル王国(ダビデ王・ソロモン王)
⇒イスラエル王国とユダ王国の分裂⇒アッシリアによる征服(バビロン捕囚)
⇒イスラエル王国の再建
⇒ローマ帝国による征服
⇒ユダヤ人の離散
⇒ビサンチン帝国による統治
⇒イスラム教徒による統治
⇒十字軍による征服
⇒アイユーブ朝による統治
⇒オスマントルコ帝国による統治
⇒英国委任統治領
⇒国連のパレスチナ分割決議
⇒独立宣言
⇒独立戦争を含め4回の中東戦争
⇒中東和平(オスロ合意)
⇒中東和平の停滞・・・
イスラエルは英国による委任統治が終了した1948年5月14日に独立を宣言しましたが、これに反発するアラブ諸国との間で第1次中東戦争(イスラエル独立戦争)が勃発しました。1956年7月には、エジプトによるスエズ運河国有化に反発する英国・フランスと共にエジプトとの間で第2次中東戦争が勃発しましたが、旧ソ連、米国等の反対により、停戦となりました。1967年6月の第3次中東戦争では、イスラエルがゴラン高原、東エルサレムを含むヨルダン川西岸全域、ガザ地区、シナイ半島を占領しました。これに対しアラブ諸国は1973年10月に失地回復のため、イスラエルに攻め込み、第4次中東戦争が勃発しました。何れの戦争でも、イスラエルは敗北することはありませんでしたが、アラブ諸国との間の関係は決定的に悪化することとなりました(第4次中東戦争中にアラブ石油輸出国機構(OAPEC)による親イスラエル国に対する石油禁輸措置及び石油輸出国機構(OPEC)による大幅な原油価格引上げは第1次オイルショックを引き起こした。また、この経済的混乱に対処するため、先進国7ヶ国による主要国首脳会議(G7)が毎年開催されることとなった)。
その後、シナイ半島を占領されたエジプトとの間で交渉が行われ、1979年3月にエジプト・イスラエル平和条約が締結されましたが、これを主導したエジプトのサダト大統領は1981年10月に、この平和条約をアラブに対する裏切りであると反発する勢力により暗殺されることとなりました(この暗殺事件で起訴され、有罪となった中にAl-QaidaのNo.2となったアイマン・アル・ザワヒリ(Ayman al Zawahiri)がいる)。
ちなみに、イスラエルの空港等の出入国時の検査は世界で最も厳しいことで有名です。特に、出国時の検査は厳格で、空港の場合、通常出発時間の3~4時間前までに空港に到着することが推奨されています(空港敷地内に入る際、空港建物内に入る際、チェックインカウンターに並ぶ際、出国審査の際、等々で何回もチェックを受けることが一般的である。また、イスラエルの国営航空会社であるエル・アル航空は、機材の耐爆化、搭乗直前の保安検査等のハイジャック防止策、銃を持った保安要員が一般乗客に紛れて搭乗する等、安全対策、テロ対策を徹底しており、世界で最も安全な航空会社とも言われている)。
6. イスラエルにおけるパレスチナ問題
イスラエルによるヨルダン川西岸地区、ガザ地区を含めたパレスチナ人が数多く居住する地域の実効支配に対し、パレスチナ人の抗議活動は1967年の第3次中東戦争以降、特に強くなっています。1987年12月9日にガザ地区においてイスラエル人のトラックとパレスチナ人のバンが衝突事故を起こし、4人の死亡者が出たことがきっかけに発生した武力衝突は1993年8月のオスロ合意及びパレスチナ自治政府の設立に伴い沈静化する時まで続きました(第1次インティファーダ)。
また、2000年9月28日には、イスラエルの当時のシャロン・リクード党首・外相(後に首相)が1,000名の武装した側近と共にアル=アクサー・モスクに入場したのがきっかけに衝突が頻発し、2005年2月のシャルム・エル・シェイク(Sharm El-Sheikh)でのイスラエル・パレスチナの首脳会談による合意まで続き、この期間だけで3,000人以上が死亡したと言われています(第2次インティファーダ)。
これまでイスラエルとパレスチナ側は1993年8月のオスロ合意をはじめ、数多くの交渉・合意・反故・破たんを繰り返して来ています。国際社会はこの中東和平の進展を目指していますが、ほとんど進展がないのが実情です。特に、現在のネタニヤフ政権はリクード主導政権(同首相にとっても2回目の首相職)であり、更にネタニエフ首相は対パレスチナ強硬派として知られていることから、イスラエル人の中には「ネタニエフが首相でいる限り、中東和平の前進はあり得ない」と断言する人も少なくない状況です。ちなみに、同首相の実兄のヨナタン・ネタニヤフ中佐は1976年7月のエンテベ空港奇襲作戦を指揮し、唯一戦死したイスラエルの英雄であることも、同氏が対パレスチナ強硬姿勢を堅持する一因とも言われています。
(了)
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