2012/07/25
誌面情報 vol32
ロンドンオリンピックを迎える 英国のテロ情勢
∼企業や社会の危機管理の観点から∼
今月下旬からロンドンでオリンピックが開催される。言うまでもなくオリンピックは世界的なスポーツイベ ントであり、世界中から観光客が英国入りすることが予想される。ホスト国にとってもそれは国の威信をか けた一大行事であり、それを安全のうちに終わらせることは国家の外交的責任でもある。英国もそれは十分 熟知しており、 “オリンピック開催における最大の懸念事項はテロで、それは依然として深刻な脅威である” との認識のもと、警察官の増員や公共交通機関でテロが発生したと想定しての避難訓練、テロ対策における 軍の積極的な協力など厳重な警備体制で臨んでいる。ではオリンピックを迎えるにあたり、現在の英国のテ ロ情勢とはどのようになっているのであろうか。
①英国で懸念されるテロの類型
1.アルカイダを中心とする 「グローバルジハード」ネットワーク
現在アルカイダを中心とする「グローバルジハード」のネットワークは、パキスタン・トライバルエ リアに潜むコア・アルカイダ(ビンラディンやザワ ヒリ等による)の組織的弱体化が観られる半面、南 アジア(タリバンやラシュカレタイバ)や中東(ア ラビア半島のアルカイダやイラクのアルカイダ) 、 アフリカ(アルシャバブやマグレブ諸国のアルカイ ダ)などに拡散するイスラム過激派ネットワークの 台頭とその活発化、情報・通信のグローバル化の恩 恵を受けたホームグローンジハーディスト(一匹狼 型)の増加に依存するようになっている。そして近
年欧米内で最も懸念されているのが、欧米に住み過 激思想を持つ個人やグループ、もしくはインター ネットの過激派サイトの影響により自らジハーディ ストへ変貌する個々人の存在である。
去年米国ランド研究所から発行された論文 「Radicalization, Linkages, and Diversity ‒Current Trends in Terrorism in Europe」によれば、近年 欧州で発生する未遂を含めたテロ(2006 年 1 月か ら 2010 年 12 月)は 33 件報告されており、そのう ち 13 件が英国で発生しており(ドイツ2件、イタリア3件、フランス2件、スペイン2件、デンマー ク6件、ノルウェー2件、スウェーデン2件、オラ ンダ1件) 、これは大陸ヨーロッパ諸国と比較して も非常に多い。英国内で発生したテロ事件は、ロンドンヒースロー空港やグラスゴー空港など旅客機を 狙ったと見られる事例、英国の政治家やイスラムを 批判した者を襲撃したとされる事例、ロンドンやマ ンチェスターなど大都市の重要権益や公共交通機 関、大衆が集まる場所などを狙った事例などがほと んどである。
これらのテロ事件は、アルカイダなどのイスラム 過激派の正式なメンバーが英国に入国し、綿密な準 備をし、テロ攻撃を実施しているわけではない。以 前と比較して欧米各国は、9.11 同時多発テロの経験 により国際協力のもと厳重なテロ対策を実施してい るので、網羅的にデータリスト化された過激派メンバー個々人が欧米各国へ入国し、そこで自由にリク ルートを行い、洗練されたテロ攻撃をすることは非 常に難しい。アルカイダネットワークもそれを熟知 しており、よってインターネットなどのグローバ ル化した通信手段を用い、メンバー募集や犯行声 明、爆弾を製造するための簡素化されたマニュアル をウェブサイトに公表し、欧米内に眠る候補者達に 自らテロ(Do it yourself terrorism)を実施する ことを推奨している。そしてその戦略が功を奏した のか、国際テロ研究的に近年欧米のテロ情勢で見ら れる特徴として、アルカイダネットワークから候補 者達へ実質的にアプローチするのではなく、 “候補 者達が自らアルカイダネットワークにアプローチす る”という現象が見られるのである。
実際テロ対策が強化されている欧州で発生したテ ロ事件は、ランド研究所のデータより 33 件中 8 件 がアルカイダネットワークと何らかの実質的なリン ケージを持った個人によるテロであると報告されて いる。そして残りのほぼ 7 割の事件はアルカイダ ネットワークとは実質的な関連を持たない個人(一 匹狼)による単独テロであるが、それらは未遂や小 規模レベルの攻撃で終わっており、攻撃計画や爆弾 製造において素人が行っているという特徴がある。
近年英国内で発生した事件もその一匹狼の事例が 多く、実際のリスクとしても、ロンドン五輪期間で は綿密に計画されたテロ以上に、このような素人による洗練されていない小規模型のテロが発生する方が現実的に考えられる。そのような場合には、この 類型のテロの歴史から、ヒースロー空港や公共交通 機関の駅など多くの人々が集まる場所はもちろん、 国会や欧米系大使館、シティーなどの金融街、さら には欧米人が集まる娯楽施設やシナゴークなどは標 的とされやすい。
2.キリスト系極右主義を信念とするテロの脅威
2011 年 7 月ノルウェー・オスロで 77 人が死亡す るという残虐なテロ事件が発生した。この北欧最悪 のテロ事件の単独犯であるブレイビクは、極右主義 的な考えの持ち主で、自由主義や多文化主義を信念 的に嫌い、政府の移民への寛容な政策を批判してき た。 テロ研究で世界的に有名な研究機関、Combating “ Terrorism Center at West Point”が発行する月刊 レポート“CTC Sentinel January 2012”の中で、 ノルウェー人研究者ピーター・ネッセルが執筆した 論 文“Individual Jihadist Operations in Europe: Patterns and Challenges”によれば、ブレイビク は自ら執筆したマニフェストの中で、イスラムジ ハーディストのこのような一匹狼的なテロ手法は、 自らがテロを行う意味で非常に参考になったと論じ ている。そしてブレイビクはイスラム主義から防衛 するのは使命であると述べており、彼は異文化へ寛 容な政策を採り続ける政府に不快感を抱いていたと される。その不満、思想とテロ実行における手段が 不運にもマッチした結果、北欧最悪のテロが起きた 事に我々は懸念を示さなければならない。 現在世界的に流行しているグローバルジハードの 動向は、他のイスラム過激派を自らのテリトリーに 包み込む可能性があると同時に、それに相容れな い、または全く別の主義、思想を持つグループにテ ロ計画や手法という実際的、より具体的な部分で強 い影響を与える懸念があるのだ。現在欧州では経済 危機を中心に失業や経済格差など社会的問題が深刻 化し、それに端を発した不満を持つ者がブレイビク をモデルとして、極右的な思想に基づいたテロ事件 を実行するというリスクにも注意が必要だ。
3. 地域的な領土紛争に由来するテロの脅威
最後にもう1つ補っておきたい。それは北アイル ランド紛争に由来する IRA の存在である。IRA は 現英国領である北アイルランドを英国から分離し、 北部 6 州とその他 26 州を統合することを目的とす る分離独立型の地域的なテロ組織である。IRA は 設立当初から長年北アイルランドやロンドンにおい てテロ事件を発生させてきたが、1997 年に英国と 停戦合意に達し、05 年には武装闘争終結を宣言し ており、近年際立ったテロ活動は行っていない。しかし 97 年の停戦合意に異を唱えた IRA の強硬派 (真 の IAR)はそれ以降もテロ活動に積極的で、90 年 代後半は北アイルランド・アーマー州を中心に度重 なる爆弾テロ事件を引き起こし、2000 年代に入っ てからもロンドンで複数の小規模テロ事件に関与し た。そして近年では 09 年に北アイルランドの英軍 基地で、真の IRA のメンバーが兵士 2 人を射殺す る事件が発生し、今後もテロを継続する趣旨の声明 を発表している。しかしながら、IRA は現在オリ ンピック開催を迎える英国が懸念する第一義的な脅 威とは認識されていないと考えられる。
②近年世界的な政治、スポーツイベントを標的 としたテロ事件
テロリストにとって世界の注目が集まるイベント時にテロを行う事はメリットがある。注目度が集 まっているだけに、何か起これば反射的にそのダ メージも大きい。よってそれはテロリストにとって のメリットでもあり、近年においてもその開催最中 を標的としたテロ事件は発生している (図1参照) 。
05 年 7 月、英国がホスト国となった先進国主要 サミットがスコットランド・グレーンイーグルスホ テルで開催された。先進国の首脳が集まり、国際問 題を議論するこの政治イベントの世界的な注目度は 非常に大きい。よってテロリストにとって戦略的な 観点から、世界的な注目が集まっているこのタイミ ングに英国内でテロ攻撃を実行することは、違う時 期に英国でテロを引き起こしたり、イラクやアフガ ニスタンで日常的なテロを繰り返すより、国際レベ ルにおけるより強い政治的ダメージや心理的脅威を 拡散できる可能性は非常に高い。
実際ロンドン同時多発テロの実行犯がそれを熟知 の上、事前に巧みなテロ計画を構築していたかにつ いての詳細は分からないが、偶然そうだったと結論 付けることは、英国が置かれるテロ環境やタイミン グ的にも難しいと言わざるを得ない。そして北京オ リンピック当時にも、中国当局がアルカイダの関連 組織と位置付ける ETIM(東トルキスタンイスラム 党)によるテロ予告や襲撃事件が複数発生し、その 活動は非常に活発となった。そして北京五輪後、そ の活動は依然として継続しているが、北京五輪時に おける盛り上がりほどでは決してない。2010 年で はオリンピック以上の盛り上がりを見せるサッカー ワールドカップ南アフリカ大会において、イラクの アルカイダ (AQI) が米国対英国の試合においてテ ロを実行するという報告が報道機関からなされた り、スペインとオランダの決勝戦最中には、ウガン ダの首都カンパラでそれを大画面の投影装置で観戦 していた人々を標的とした爆破テロ事件が発生した のである。それを実行したのは現在アルカイダネッ トワークでも最も活発的なイスラム過激派であるソ マリアのアルシャバブで、以前に彼らはアルカイダ との共闘を宣言し、英国からソマリアへ渡るソマリ ア系英国人も多い。さらに世界的に優れた科学的功 績を残した学者へ与えるノーベル賞授賞式において も、その近くで過激化した欧州出身のムスリムによ る自爆テロ事件が起こっている。もちろん日常的に テロ事件は世界各国で発生しており、これらはそのほんの一部にすぎないが、このような事例の連続を偶然の連鎖でしかなかったと結論づ けることができるのであろうか。 ロンドン五輪における自国産テロ リストの脅威、そして2年後におけ るカフカス首長国(ロシアのイスラ ム過激派)の脅威は、このような過 去の教育から我々は学ぶ必要がある と思われる。
③実際ロンドン五輪を迎えるにあたり、気を付けるべき点は?
実際のリスクの観点から、英国が 抱えるテロ情勢の中で日本人を直接 の標的とするテロが発生するリスク はほぼないだろう。しかし“標的と される”と“巻き込まれる”事は実際の被害におい ては同じような具体的結果として表面化するかも知 れない。
テロリストと一般犯罪者の違いは、その後の対応 に現れる。一般的には自らが犯した一般犯罪につい て、個人が公に犯行声明を発表し、政治理念的な要 求をすることはあまりない。それとは反対にテロリ ストはそれを自然に行う場合が多い。そのような意 味で、より心理的、政治経済的な脅威を拡散できる事はテロリストにとっては非常に有難く、9.11 同時 多発テロは国際政治を転換させる規模の事件であっ たという事はアルカイダにとって名誉ある出来事であったと言えるかも知れない。
英国が、上記した特にグローバルジハードとそれに影響された個々人による脅威を抱えているのは、 英国のオリンピック開催におけるテロ対策を見れば 明らかである。グローバルジハードの動向の研究に おいて世界的にリードする米国、 英国、 イスラエル、 シンガポールなどにある学術機関において発行され る論文を網羅的に検証しても、ロンドン五輪を迎え る英国が抱える脅威に楽観的な見解を示すようなも のはほぼない。
図1に示したように過去の事例からも、さらにオ リンピックの歴史では 72 年ミュンヘン、96 年アトランタでもテロ事件が発生していることより、世界 の注目が集まるイベント時にテロリストがそれを格 好の機会として認識しない事はあまり考えづらい。 ロンドン五輪開催時、その直前には重要権益施設、 公共機関などでは警戒レベルが引き上げられ、厳重 な警備が実施されると思われるが、ロンドンだけで はなく欧米諸国の大都市でも同程度のテロ対策が実 施される可能性もある。結果論、ロンドン五輪で未 遂を含めたテロ事件が発生しない事を祈ってやまな いが、このようなリスクについて東日本大震災を経 験した日本人は、危機管理的観点から学ばなければ いけないと筆者は考える。
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