利益を最大化するために
政府・企業が対策強化

「オリンピックに備えた BCP(事業継続計画)を取材させてほしい」こんな依頼に、首をかしげる人は誰も いなかった。 BCP 発祥の地と言われるイギリス。 オリンピックを経済の好機ととらえるとともに、 オリンピック期間中にビジネスを中断させる要因となる様々なリスクに備えた取り組みが始まっていた。

オリンピックに沸くロンドン。と、思いきや、開 催1カ月前の6月末、市街地を歩いても五輪の旗は どこにも見当たらなかった。オリンピックらしい風 景といえば、テムズ川に架かるタワーブリッジに飾 られた大きな五輪のマークと、オックスフォード サーカスの繁華街に各国の国旗が掲げられているぐ らいだった。  

イギリスでは、エリザベス女王の即位 60 周年を記念する「ダイヤモンド・ジュビリー」の祝賀式典 が6月 17 日に開催されたばかり。さらにテニスの ウインブルドン選手権も開催中で街中の装飾が間に 合わないほどビッグイベントが続いている。  

それでも、地下鉄や道路には、いたるところに、 オリンピック期間中の混雑の回避を呼びかけるポス ターや標識が設置されている(写真) 。  

オリンピックのために設けられた政府機関 ODA( Olympic Delivery Authority: オリンピック運営 局)で事業継続と危機管理の責任者を務める Steve Yates 氏は「厳しい経済状況にも関わらず、オリン ピック開催前にすべてのチケットが売り切れており とても順調だ。民間企業にとっては、絶好のビジネ ス機会になることは間違いないが、こうした大イベ ントがもたらす交通やスタッフの問題に企業は備え なければいけない」と指摘する。  

政府では、 3年ほど前、 ODA や同じくオリンピッ クの関連団体である LOCOG(London Organising Committee of the Olympic and Paralympic Games:ロンドンオリンピック・パラリンピック組 織委員会)に対して、オリンピック期間中における 民間企業向けのビジネス継続のための小冊子を作成 するよう要請した。Yates 氏はその策定の中心としてかかわった人物でもある。Yates 氏は「ほかにい ろいろな業界について精通している人を集めて、政 府がどう対策を考えているか、民間はどう考えてい るかを融合して、BCP について何か提示できない かと思って小冊子を作った」と振り返る。

■もし従業員が集まらなかったら?
小冊子 「Preparing your business for the games: オリンピックに向けたビジネス対策」では、オリン ピック期間中、以下のような状況をイメージして BCP を策定、あるいは見直すことを勧めている。
1、もし、十分なスタッ フがいなかったらどうなるか。
2、もし、交通網が麻痺したら。
3、もし、 あなたのサプライチェーンが影響を受けたら。
4、もし、あなたの事務所に立ち入れなくなったら。
5、もし、ゲーム期間中に重大な事故や、危機が発生したら。

その上で、BCP のアドバイスとして、次の5点を提案している。
・ 事業活動においてどのような側面が重要で、オリ ンピックゲームがどのようにそれらを途絶させるか考慮すること。
・ 事業の鍵となるようなサービスと製品を提供し 続けることができるように、事業の中断に対処す るための戦略を決定し、経営資源(人、建物、テ クノロジー、調達品、投資家)などについても考慮すること。
・ この戦略を実行するための事業継続計画をつくること。
・ 大会までの準備期間中に、実際に計画を訓練してチェックしてみること。
・ 計画の重要性が組織のすべてのレベルで理解されるように落とし込むこと。

このほか、具体的に考慮すべき点と解決のヒントが、従業員、インターネットとリモート環境、通信、 交通(鉄道、道路) インフラ、運送、サプライチェーンなど項目別に詳しく示されている。

■見えているリスクに確実に備える


BCP は本来、 不慮の災害や事故に備えて作るものだ。 特にイギリスは、日本の地震のように特定の大災害が 多発することはなく、むしろ、テロなども含め幅広い リスクに備える必要があるため、1つの災害だけを想 定して計画を作るのではなく、 「もし建物に入れなく なったら」「もし交通機関が動かなくなったら」「も 、 し人が集まらなかったら」など、 災害や事故によって、 結果的に経営資源が受けるだろう被害を考え、そうし た事態になった場合に、いかに事業を継続させられる かという観点から BCP を作るのが主流だった。  

しかし、今回の“オリンピック BCP”は違う。 Yates 氏は、オリンピックで予想される事業を混乱・ 途絶させる要素は特定できているので、それらに備えなくてはいけないとする。  

確かに、オリンピックは、いつ始まって、いつ、どこに何人の観光客が来るのか、それにより、どこでどのような問題が発生するのかが予想しやすい。  

この明確に見えているリスクに対して事業を中断させないことで、オリンピックというビッグイベントが もたらすビジネスチャンスを生かし利益を最大化させるという考えがオリンピック BCP の根幹にある。

Yates 氏は、 「企業は、オリンピック期間中にさま ざまなリスクが発生しても、通常通りにビジネスを続 けなくてはいけない」と話す。盛んに使った言葉が BAU(Business as Usual:通常通りのビジネス)だ。  

Yates 氏は、 「最初にやらなくてはいけないことは 通常というのがどういう状態なのかをきちんと特定し てもらうことだ」と言う。ビジネスには好調な日もあ れば、調子の悪い日もある。しかし、 「通常がどの状 況なのかわからなければベンチマークにはならない」 (同) 。その上で、BAU を達成するための最低限のリ ソースはどれだけ必要なのか、どのような組織体系で それを実現できるのかを考えることが大切だとする。  

ポイントとして Yates 氏は、ビジネスの全体像を 俯瞰することを提案する。自社だけでなく、サプライ ヤー、さらにはインフラや物流、設備のメンテナンス など、自分たちをサポートするさまざまな業者までを 含め影響を考えるということだ。

「これまでずっと BCP の仕事をしているが、オリン ピック対策については、レジリエンスという言葉を使 いたい。曲げた棒が、元の形に戻るような状態。その レジリエントな状態を維持し続けなければならない」 (同) 。

最大の問題は交通


オリンピック期間中に想定されるリスクで、最も懸 念されているのが交通だ。特に、地下鉄は 1863 年に 開業と、世界最古の歴史を誇る一方、ホームや車両が 狭く、冷房設備がほとんどの車両に取り付けられてい ない。おまけに、乗降駅名が正しい切符を持っている のに、自動改札口で扉が開かず、通り抜けられないこ ともしばしば。オリンピックで大量の観光客が押し寄 せれば大混雑によって運行が乱れるばかりか、熱さに よる熱中症患者の発生も心配される。

ロンドン市内とオリンピック会場を結ぶ高速鉄道 「ジャベリン」もあるが、ジェベリンに乗るまでにも 地下鉄を使う人が多いことが予想されており、混雑は 避けられそうにない。  Yates 氏は「日常的にも問題がないわけではないの に、そこに何倍もの人が押し寄せるのだから問題が発 生する可能性は高い。しかし、設備の更新や施設の拡 張をするとなれば、新しいものをつくる以上に金がか かる」とハード対策の打ちようがない状況を明かす。  

そのためか、TfL(Transport for London:ロンド ン交通局)では、交通対策のパンフレット(チェック リスト)を各企業に配布するとともに、ウェブ上でも さまざまな情報を発信、さらにオンラインでも混雑状 況の予測ができるようなツールを提供するなど、あら ゆる手をつくして市民や企業の理解と協力を求めてい る。地下鉄に張り出されている、混雑の回避を呼びか けるポスターも TfL によるものだ。  

もちろん、この他にもテロの発生や暴動など、想定 が難しい脅威は依然として残るが、それらはオリン ピックに限らず、これまでもイギリスの政府や企業が 対策をしてきたことだ。


最大の商機を逃さない
夜間配達やスタッフの対策を強化

観光客で特に需要が期待される小売業界では、様々 なイベントが続く今年をここ数年間で最大の商機とと らえ、オリンピックに備えた事業継続の対策を進めて きた。  

BRC(British Retail Consortium :イギリス小売協会)  の Richard Dodd 氏によると、イギリスにおける昨年 の小売業界全体の売上は 3030 億ポンド(約 37 兆円) 。 今年のオリンピックでは 10 億ポンド(約 1230 億円) の増加が見込まれている。比率にしたら大した額とは 言えないが、それでも、ここ数年の財政状況からする と、取りこぼせない数字だという。しかも、ロンドン の小売の売上は、イギリス全体の 20%を占める。  

Dodd 氏は、 「我々が抱える大きな問題は、配達とス タッフの問題」と語る。  


交通渋滞が続けば、 各店舗に商品が運び込めないし、 従業員が店に来られなければ少ないスタッフで、通常 より何倍も多い客の対応をしなくてはいけない。  

「一般的にはオリンピック期間中に BAU(Business as Usual: 通常通りの営業)ができるようにすることが 求められているが、我々は、普段より何倍もの多くの客が来る状況で仕事を続けられるように Business as Unusual(通常の状況ではないビジネス)の計画を立 てることが求められている」と Dodd 氏は、対策の重 要性を強調する。  

BRC には現在、約 90 社の大手小売業者をはじめ、中小企業の小売店、オンライン業者を含め UK 全体の 80%が加盟する。同団体では、昨年8月に、会員数百 人を集め、オリンピック対策のカンファレンスを開催 した。テーマは「いかに困難を乗り越えて、売り上げ を最大化させるか」 。数人の講師による発表と、質疑 などで盛り上がったという。  

Dodd 氏によると、現在、会員企業が行っている対策は、在庫を多めに抱えることや、日中を避け夜間に 配達をすること、そのためにエンジン音の静かな車両 を使ったり、 積み下ろしの倉庫を防音にすることなど。 また、仮に従業員が交通渋滞などで出勤できなかった 場合に備え、他の店舗から応援を回すようなシフトの 組み替えについても検討しているところがあるとする。特に需要が見込まれるブランド品や土産品などを 扱う企業は、それだけ対策も進んでいるようだ。  

一方、大量の買い物客が来ることで問題になるのが セキュリティと安全対策。Dodd 氏は「犯罪やテロに 備えるとなると、出入り口を小さくして要塞のような 店舗にせざるを得ない。しかし、それでは消費者の買い物がしやすい状況とは逆になってしまうため、各社 とも費用対効果を考えながら、できる範囲でしか対策 を打っていない」と説明する。  

最も起きてほしくないリスクは何かとの質問に対して、Dodd 氏は「一番大切なことは、人がたくさん来 てもらえるようにすること。人の動きを妨げることは 何でも好ましくない。交通の途絶、テロ、テロが起き るという風評、それから天気が悪いことも困る」と答えてくれた。