嘉納逝去と<幻の東京五輪>

各国IOC委員の多くが東京開催に不安を隠さなかったが、日本に承認を与えたのは、明治42年以来約30年間もIOC委員を務め、今なおこうして頑張る嘉納へのせめてもの贈り物であったといえる。総会後、嘉納はギリシャに行き前年死去したクーベルタン男爵の心臓埋葬式に参列し、その後アメリカに渡り、米国IOC委員ウィリアム・メイ・ガーランド等にカイロ会議における日本支持の感謝を表明するとともに、東京大会に多くの選手を派遣して欲しい旨を伝えた。そして、4月23日にはバンクーバーから氷川丸に乗船し、帰国を待ちわびる日本に向けて太平洋の航路を急いだのである。

しかし、乗船後約2週間後の5月1日から風邪に肺炎を併発し、ついに5月4日午前6時33分に79歳の人生を閉じたのである。昭和13年(1938)5月5日付東京朝日新聞では、「オリンピックの大恩人、帰途の嘉納治五郎翁 船中忽然と逝く、氷川丸で急性肺炎」と報道された。

嘉納の死により、オリンピック参加への精神的支柱と情熱を失った日本では軍部が台頭し、オリンピックどころではなく侵略戦争にばく進して行った。その結果、第12回オリンピック大会は返上され、オリンピックの歴史の中で「幻の東京オリンピック」との「汚点」なってしまったのである(ちなみに、戦時下でありながら講道館では嘉納師範の精神を受け継ぎ、学術優秀でしかも情操豊かな柔道家を育成しようとした。軍国主義的な稽古は行わなかった)。

新聞報道に見る幻のオリンピック

当時の新聞報道ぶりを見てみよう。<幻の東京大会>は、昭和13年に決まった。日本にとっては「皇紀2600年」祝賀行事の一つだ。しかし翌年、日本は中国との戦争に踏み出す。陸軍は、馬術競技への将校の参加を撤回した。政治家からも東京開催反対が出て、混乱した。12月に日本軍は、南京を占領し、年が明けて昭和14年(1939)になると、イギリスや北欧から東京大会反対の声が上がった。

「新聞と『昭和』」(朝日文庫)を参考にし、一部引用する。

「朝日」は、こうした反対は日中戦争が長引いたためだ、と書いた。そして「政治とスポーツは別だ」と東京大会を後押ししたアメリカ五輪委員会委員長ブランデージの主張をよく取り上げた。「横槍を恐るるな!米国・東京大会を支持」(1938年1月20日付)。

一方、イギリスの競技者のボイコットの動きについては「不可解」とし、中国の反対は「泣き言」と断じた。3月のIOC総会で東京大会の日程が正式に決まると、「あらゆる策動陰謀も正義には勝てず」(3月18日付)と書いた。ニューヨーク・タイムズが社説で反対しても、「迷論」(6月22日付)と切って捨てた。

だが紙面上の勢いとは裏腹に、日本政府は1938年7月、「物心両面で不適切」として、五輪を返上を決めた。「すべてを戦争目的に集中せんとする現下の事情に照らし、誠に止むを得ずという外はない」(「朝日」7月15日付社説)。

当時の「朝日」読者には知らされなかったことがある。「日本軍の南京での蛮行や無防備都市爆撃に、民主国家の反対が広がっていた」(7月16日付ワシントン・ポスト)。実は、IOC会長ラツールは、4月に日本の大使に会い、東京大会反対の電報が150通届いたことを告げて、辞退した方が日本の面目のためにもよいのではないか、と勧めていた。極東で協調路線を探るイギリス外務省も、ボイコットはまずいので東京大会を「必ず自然死させよ」と記した文書を残していた。他国の反対した理由を多くの国民は知らないまま、戦後アジア初の東京五輪を昭和39年(1964)に迎えた。

参考文献:「気概と行動の教育者 嘉納治五郎」(筑波大学出版会)、「柔道の歴史と文化」(藤堂良明)、「新聞と『昭和』」(朝日文庫)。

(つづく)