アステナホールディングス社長の岩城慶太郎氏

1月1日に発生した能登半島地震では、被災地の人々を、被災地外のホテルや旅館などの一時的な避難施設に移す「二次避難」が注目されている。行政が本格的に二次避難に力を入れる前から、個人の力で二次避難の大きな流れを作り出した人物がいる。2021年に珠洲市に移住し、東京の本社機能も一部移転させた東証プライム上場の医薬品製造販売会社「アステナホールディングス株式会社」社長の岩城慶太郎氏(46)だ。発災直後から支援活動に奔走し、二次避難先となるホテルを確保。集落住民を移送したり、二次避難先と被災者のマッチングサイトを立ち上げたり、さらには被災地と二次避難先の金沢を運行する定期便のバスを走らせたりと、矢継ぎ早に支援を展開する。今では復興後のビジョンづくりも手掛けている。

岩城氏が珠洲市に移住したのは2021年6月のこと。2016年に夫婦で何となく訪れた能登の魅力に惹かれた。2020年からのコロナ禍でテレワークがスタンダードになったことから移住を決心。高齢化率50%を超える過疎地でビジネスを行うことは会社にとっても意義があると、自らが社長を務めるアステナホールディングスの本社機能の一部も珠洲市に移転した。「文藝館」という珠洲市が古民家をリノベーションして所有していた施設を借り、社員数名が移住、数名を現地採用した。ようやく住民の生活に溶け込み、地域と一緒になったまちづくり活動を展開していこうと考えていた矢先、今回の地震は発生した。

「私の集落が陸路寸断で孤立した」

地震発生時、岩城氏は東京に帰省していた。外出中だったため、社員の安否を確認しながら帰宅を急いだ。家に着いたのが夜6時ぐらい。それまでに全社員の安否確認を終えた。「まずは(珠洲市にいる)社員が全員安全かどうかを確認しないといけないと思いました。ただ、ほぼ全員が珠洲市外にいたので、無事ということはすぐに確認できました」(岩城氏)。次に行ったのが会社の被害状況の把握だ。本社機能が珠洲市にあるとはいえ、行っている業務は新規事業開発と庶務など一部事業に限られる。「事業継続に必要なアセットはほとんどないし、機能として事業継続にかかわるものは郵便物の受け取りぐらいです。ただし、元日ということもあり、重要な書類が届くことはありませんし、もし郵便が止まっていても再発行してもらえば大きな問題にはならないと即判断しました」と岩城氏は振り返る。この2つの確認を終えると、すぐさま市民としての活動を開始した。

「私の住んでいる集落が、陸路が寸断して孤立していることを2日の昼に知りました。これは何とかしないといけない。放っておいたらみんな死んでしまう。情報を集めていくと、自分の集落だけでなく珠洲市のあちこちに孤立集落があることが徐々にわかってきました」

2日の夕方、以前から交流があった西垣淳子副知事に連絡し、自ら情報収集した集落の状況や、自衛隊が船で上がれそうな港を伝え、物資の搬送を依頼した。当時はまだ海岸での地盤の隆起を知る由もない。実際、自衛隊がたどりつけたのは2つの港で、しかも小型船でしか漕ぎつけなかったため、十分な物資が運べていないこともわかった。

みなし避難所への流れをつくる

「72時間がすぎた段階で、もう住民を外に出すしかない、と思いました。この段階で救助できていない人は私には助けられない、そう覚悟しました」と岩城氏は語気を強める。

1月4日、自らのFBには「私の活動は、孤立集落の調査から、被災者の一時退避、および一時移住にターゲットを移しつつあります。目標は、奥能登に住む5万人を全員一度外に出すことです。まずは地域の総人口の1%である500人が1月31日まで住めるホテルを手配しています」と自らの活動と今後の方針を書き込んだ。

自費を投じて金沢市内のホテルなどを確保した。結局、災害救助法が適用されて、大半のお金は支払う必要はなくなったが、この行動が、住民を外に出す大きな流れを作った。いわゆる「みなし避難所」である。制度が後から追いかけてきた形となった。

1月5日からは、集落の集団移住を進めた。岩城氏の仲間が調達してきたマイクロバスなど40人ぐらいをのせて、被災地外の宿泊施設に移送させることに成功した。「最初は本当に自分とこの集落をどうにか助けよう、そんなことだけを考えていました。目の前の人たちを放っておくことはできませんから」。マイクロバスでは7日~12日までをかけ、被災地から二次避難先へと被災者を運んだ。

写真は1月中旬の輪島市内の避難所(写真:新華社/アフロ)