■「やめたほうがよい」とT氏は言った
ハルトが北八ヶ岳の、とある山小屋に泊まった時のことです。夕食の際に相席になった単独行の登山者T氏と、次のような会話をしました。T氏は50代最後の年に大企業を退職し、その後は手持ちのお金を投資その他の運用にあてて、悠々自適の生活を送っている人のようです。
T氏はすき焼きをつつきながらハルトに尋ねました。「明日はどちらへ?」。
「北横岳から大岳を通って双子池に出ようと考えています」とハルト。するとT氏は少し乗り出すようにして言いました。
「それ、今日僕が逆からたどってきたコースだ。もう二度とあの道は通りたくないね。危険かって? うーん、例えて言えば、登山道というより巨岩が積み重なるデコボコの連続で、ものすごく歩きにくい。登山地図のコースタイムは2時間となっているけど、実際はもっとかかるかもね。悪いことは言わない。別のルートを迂回するか、登る山を変更したら? 周辺にはここから数時間以内で登れる山がいくつもあるよ」
部屋に戻り、寝床に地図を広げながら、ハルトは少し思案し始めていました。さて、どうしたものか。リフレッシュが目的でやってきたのだから、あまり難行苦行は味わいたくない。T氏のアドバイスを受け入れてコースを変更しようか。それともT氏の意見はあくまでT氏の主観的な意見として無視し、予定通り進むべきか…。
翌朝ハルトは、T氏に会った際に言いました。「今回はあまり辛い山歩きはしたくないから、Tさんの言う通り別のコースを行くことにしました。以前一度通ったことのあるコースですけどね」
■親切心がアダになる
ところが後日、このことをヒデさんに話すと意外な反応が返ってきたのです。「えっ、それで登山計画を変更しちゃったの? 僕だったら未知のリスクがあっても予定は予定として実行する方を選ぶけどな。それが登山の醍醐味だよ。赤の他人の意見をもとに自分のコースを変更するなんておかしくないか?」
いつになく辛辣な言葉でしたが、少し安易だったかなとハルトも反省しました。あのまま予定のコースを進めば確かにキツかったかもしれないが、そうした体験もよき山の思い出につながっただろうに。
Tさんは人の登山計画を妨害しようと考えていたわけではなく、単に親切心からアドバイスしてくれたのだろうけど…。そういえばほかにも似たようなケースがあったなあと彼は思い出しました。
沢のへつり(水際の岩場のトラバース)で立ち往生している人に「手はこっち、足はそこに置くといいよ」などと、手足の運びをアドバイスしている人。あるいは「槍ヶ岳ははじめてなので緊張するね」と話し合っていた山ガールたちに声をかけるイケメンのおにいさん。「僕が頂上までリードしてあげます。安心してついてきてください」。お互いに顔を見合わせ、心なしかのろのろとおにいさんの後ろに付き従う彼女ら。はたして彼女らが心から登頂をリードしてほしいと望んでいたかどうか…。
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