耐震化された近代都市が空前の被害を受けた阪神・淡路大震災

震災の発生

1995 年兵庫県南部地震(気象庁マグニチュードMj7.3)は、耐震化された近代都市を未明に襲った直下型地震である。空前の被害を生じた痛ましい出来事であり、阪神・淡路大震災として深く歴史に刻まれている。

都市直下型大地震の被害の大きな特色は、都市がシステムとして、さらに形容すればあたかも生命体として、傷つき苦しみのた打ちまわる様相である。それは、硬直化した従来の機械的な対処法がほとんど無力であることを示している【6】。

被災地の神戸市は、筆者の現役時代の大学の所在地であり、筆者自身も業務上では被災者の一員として震災の渦中にあったことをまず断っておきたい。

画像を拡大 [図3]単純化免疫システムの進化原理(第2回から再掲)

前回紹介した[図3]の記憶細胞、すなわち[図4]の公的防災拠点(首相官邸、兵庫県、神戸市、消防署など)は、予想外の被害に地震直後その甚大さを十分認識できず、初動態勢としての救助隊の派遣や物資の輸送などは、準備不足や横長の都市形態、道路閉塞などのために極めて効率の悪いものであった。

画像を拡大 [図4]免疫防災システム・地震防災(第2回から再掲)

特に木造密集地帯の老朽化住宅の倒壊と火災が大惨事を招いたことは、いまだ国民の記憶に鮮明だ。想定外の規模であり、道路閉塞もあり、消防署や消防車などの公的防災拠点はなす術もなかった。また復旧・復興に対しても、制度や法律の整備が極めて不十分だったこともあるが、公的防災拠点は限界を露呈したといえよう。


しかし、本震災を教訓にして世論の後押しもあり、その後の震災に対しては行政の対応が進み、法的整備も図られるようになったのは喜ばしいことである。

一方、同じく[図3]の抗体産生細胞、すなわち[図4]の私的防災拠点については、生命体の過度の火傷に当初こそ出番はなかったが、時間の経過とともにケースバイケース、TPO、臨機応変など、想定外の救助活動が地道な成果をあげ、さらにその後の防災対策に生かされている例があった。

代表的な事例として、ボランティア活動とインターネットについて考察を加えてみよう。検討手順は以下の必須条件に従う。
1.[図4]免疫防災システムへの適合性
2.複雑系ネットワーク、マルチエージェントシステムへの適合性
3.多様性、分業性、補充性、進化性、ユビキタス性への適合性

※参考文献
【6】河村廣「地震と共生する生物指向都市、機械指向型都市から生物システムを指向した都市へ」(Bio City)1995 年、Spring no.4、pp18~23