"大混乱は支配しなかった。どっと流れ込んで来ただけだ。"
ジョン・ヘンドリック・バング
リーリー・ロケットが彼女のボーイフレンドとニューオーリンズでバケーション中に、ハリケーン・カトリーナが襲来する。
彼らはホテルから避難するが、空港は閉鎖されている。街路に立っている兵士がけだるそうに指差すので、彼らは南へ長い道のりを歩いて、やっとカオス状態の場所に着く。スーパードームだ。
彼女が呆然とした人々をかき分けて進んで行くと、使える電話はないと言われる。
レイプや自殺そして殺人をあったとデマが広まっている。一人でいるのは危ないぞとオーストラリア人の男がと警告する。
兵士は発電機がもうすぐ壊れると言う。全くの暗闇に閉じ込められてしまい、暴動が起こるかもしれない。
彼女は怖くなった。
スーパードームの内部は、なにもかも急速に悪くなっていった。
室温は30度を超え、穴の開いたスーパードームは一度に湿度を引き込み、内部に閉じ込めてしまった。
食物は、建物中に置かれた数百台の冷蔵庫と冷凍庫の中で腐っている。その匂いからは逃げられない。
洗面所ではどのトイレも使い物にならない。
水道ポンプは故障してしまった。嵩上げされた施設に送水する水道ポンプがないので、水圧が確保できなかった。
どの流し台も壊れていた。
膿(う)んで、打ち壊されたドームの収容人員は、ヘリコプターと水を切って進める車両が取り残された市民を救助し、唯一残った場所に運び込むので、短時間に1万5000人から3万人へと増えた。
われわれは嵐から避難して、数百人の病人と高齢者で溢れるバスケットボール競技場に移動しただけだった。病人のあとに、ニューオーリンズを出て行くのは外国人であろうという噂が流れた。しかし、おお神様、なんという悪臭だ。誰もが医療マスクをつけているが、われわれにはひとつも残っていない。
約8年間私はOEMで副長官だったが、災害対応計画を指導し重大災害の市全体の調整を指揮した。
2006年2月、私がOEMに加わった時カトリーナ対応の屈辱がまだ私の心にまだ新鮮に残っていた。
OEM初日にジョセフ・ブルーナー長官が私をオフィスに呼んだ。“市庁舎はカトリーナ・ハリケーンのことで自縄自縛に陥っている。彼らはそこで起こったことに恐怖心を持っているのだ”。
”長官、みんなそうですよ“と私は答えた。
彼は、白い表紙に“沿岸ストーム対応計画”とだけ書かれた3リング・バインダーを私に手渡した。“これはあなた用だ。われわれは世界中でベストのハリケーン対応計画が必要だ。それ以下ではだめだ。”
そして、火災やブリザードそして停電事故の対応にためEOCを監督する合間に、ニューヨーク市の沿岸ストーム対応計画がわれわれの最優先業務となった。
われわれはいくつかのチームを編成して、沿岸ストームの監視、意思決定、残骸物除去、ロジスティックス、救助避難、シェルター運営などの大きな課題を包み込んだ。
われわれはテキサス州やフロリダ州など湾岸諸州の同じ部門を訪ね、彼らの教訓やベストプラクティスを学び、われわれの見つけることができるものは何でも探究した。
私が加わってしばらくして、誰かがカトリーナ災害の対応に関する連邦議会報告書のリンクを送ってくれた。
連邦議会下院の超党派委員会は、起こるべきことがそうならず、それはどうしてなのか、また誰に責任があるかを400ページにもわたって記述していた。
今日まで、ニューヨークの災害専門家たちは、“イニシアティブの失敗”を災害文献の傑作と考えている。
ニューヨーク市OEMでは、何をすべきでないかのバイブルとなり、ニューヨーク市沿岸ストーム計画の青写真を作成するために活用した。
カトリーナの時に、湾岸諸州が直面したスーパードームの災害と赤十字が直面した課題を考えると、われわれは災害の期間中の集団ケアの責任を市が負うと決断した。
ホームレス・サービス局、教育局も含め多くの市部局と連携をして、500カ所以上のシェルター場所を持った緊急シェルター体制を構築した。
われわれは、自動の職員通知と要員配置システムと、教室の講義と直前の現場トレーニングを含んだシェルター要員の研修教育のスタッフ・トレーニングを開発した。
シェルターに必要備品を供給するために、われわれは7万人分まで賄えることができ、24時間以内に市内のシェルターに配備できる医療用及び個人用の日常備品セット、折り畳みベッド、毛布、食糧、飲料水、ペット用備品の緊急時備蓄を創設した。
われわれはこの能力を築くために5年間働いた。そして2011年の8月に使い始めた。
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