大久保の東北振興策とビッグプロジェクト

オランダ人技師ファン・ドールン(来日時)

「征韓論」をめぐって盟友の西郷隆盛が下野した後、44歳の大久保は政府の最高実力者となった。彼は、難問山積の国家を建て直すため「参議・諸省卿兼任(参議が大臣を兼任)ノ原則」を打ち出し、政府方針と行政との統一を求めた。明治6年11月10日、内務省の初代内務卿に就任した。内務省には、勧業寮、警保寮(以上一等寮)、戸籍寮、逓信寮、土木寮、地理寮(以上二等寮)、測量司、記録課、庶務課が設置された。

内務卿は、天皇への直接責任を負うことで他の閣僚よりも一段高く位置付けられ、実質的には内閣総理大臣であった。勧業、警保二寮が一等寮とされたのは、内務省の主要任務を物語るもので、前者は殖産興業の総元締めであり、後者は全国警察行政の中枢であった。

大久保は戊辰戦争以降、決定的打撃を受け貧困にあえぐ東北地方の殖産興業・開拓開墾を優先させる立場を取った。不平士族への授産対策も背景の一つにあった。そこで彼は明治天皇の東北巡幸を発案した。明治天皇の東北巡幸は、近畿・中国地方への第一回巡幸に続く第二回目のものであり、明治9年(1876)6~7月にかけて50日間及ぶものであった。
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明治天皇は、6月2日皇居を出発した。随行は右大臣岩倉具視、顧問木戸孝允、宮内卿徳大寺実則(さだのり)をはじめ230人にものぼった。内務卿大久保は、東北各県の産業視察をかねたため、5月23日に先発し仙台で一行と合流することになっていた。

大久保は、巡幸一行とはしばしば別行動をとって東北各県の産業経済事情をつぶさに調べた。精力的な現地視察から得た東北開発の構想は、翌10年(1877)3月に右大臣三条実美に建議した「一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺」や、11年(1878)の「原野開墾ノ儀ニ付伺」の中によく示されている。

これらの中で大久保は、開墾移住、地方固有物産の保護改良、運輸の整備、新産業の進展などの諸事業を具体的に提示した。

「一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺」で、大久保は壮大な東北開発計画を打ち出した。それは野蒜築港、新潟港改修、越後・上野間運輸路・開削、茨城県の北浦と涸沼(ひぬま)を結ぶ大谷川運河・開削、那珂湊改修、阿武隈川改修、印旛沼を東京湾に結ぶ水路開削の七大プロジェクトであった。

計画の主体は、仙台湾に予定される国際港・野蒜港を起点として北上川、阿武隈川、那珂湊、大谷川運河、北浦、利根川、印旛沼、東京湾と連絡する一大運輸網(水路網)と阿武隈川、安積疏水、猪苗代湖、阿賀野川、新潟港の太平洋側・日本海側を結ぶ大運河を構想していたもので、「白河以北一山百文」とさげすまされていた東北地方の近代化を一気に目指す壮大なスケールのプロジェクトであった。大久保の七大プロジェクトは低水工事と港湾工事が主力であり、河川・港湾工学を専門とする長工師ファン・ドールンは大久保の遠大な構想(ビッグ・プロジェクト)を実現するために来日したようなものであった。

だが、この建議から間もない明治11年5月14日、大久保は私邸近くの東京・紀尾井坂で石川県士族島田一郎ら六人の兇徒に襲われ横死した。享年49歳。この朝大久保は私邸で福島県から陳情に訪れた地元代表と面会し、安積疏水に関する相談を受けたとされる。

大久保の掲げた東北振興策の大半が水泡に帰した。外国人技術者の限界を示すものといえるが、そのうちの一大成功例が安積疏水である(安積疏水は琵琶湖疏水、那須疏水とともに明治期の3大疏水計画である)。