■それは久々のパーティ登山でのことだった…
ヒデさんとハルトとは同じ会社の山の先輩と後輩の間柄です。二人はよく山の話はするものの、しかしめったに一緒に山へ出かけることはありません。ハルトから声をかけてくることは稀だし、ヒデさんとしても、もっぱら一人で山に登るのが好きなハルトの性格を知り抜いているからです。
しかし今回は例外的に、二人で南アルプスの甲斐駒ケ岳を目指すことになりました。「まだ制覇していない山」という共通項を見出したのがきっかけです。夏も終わりかけた8月下旬、二人は甲斐駒の東に伸びる、長くて急峻な黒戸尾根をコースに選びました。
笹の平から刃渡りの露岩帯を注意深く通過し、五合目へ。そこを過ぎると俄然、体力がものをいう厳しい登りになります。垂直に近い岩の裂け目に張り巡らされたはしごやロープ、鎖を頼りに腕力と足力と気力でガンガンよじ登ります。
「やっと山小屋に着いたぞ!」。二人が七丈小屋に入った後、ほどなく雲行きが怪しくなり猛烈な雷雨となりました。山の時間はどんどん過ぎていきます。屋根を叩きつける強雨と雷の音を聞きながら夕食を終え、寝床をこしらえて足を伸ばしてくつろいでいると、すぐにうとうと眠気が襲ってきます。
小屋の主人が、間もなく消灯の時間ですと宿泊者たちに呼びかけていると、突然ほうほうの体で小屋に飛び込んできた人がいます。50代後半ぐらいの男性で全身ずぶ濡れ、唇は青く、寒さでガタガタ震えています。「すんません、こんな時間に…」。男性(X氏とします)はペコリと頭を下げました。
■自信が過信のリスクに
一夜明けて朝食の時間です。ハルトとヒデさんの向かい側の席に座ったのはX氏。少し気になっていたヒデさんはX氏に声をかけてみました。「夕べは大雨の中、たいへんでしたね。どちらから登って来られました?」。するとX氏は頭をかきながら、次のような話を始めたのです。
昨日の朝、X氏は甲斐駒の西にそびえる仙丈岳の頂上にいました。山は快晴、南アルプスの山々はもとより、遠くは八ヶ岳、北アルプス、中央アルプスの絶景が広がります。この日は山頂から尾根を下り、北沢峠からバスで甲府へ出る予定でしたが、あまりに天気がよく、このまま山を降りるのは無念です。X氏は頭の中で計算しました。
休暇はあと2日残っているし、この先は下りだからあまり体力も使うまい。予備の食料もある。よし今日は北沢峠から、がんばってもう一つの甲斐駒ケ岳を目指し、山頂を極めて七丈小屋泊まりとしよう。1度の休暇で名峰2山に登れるなんてめったにないことだ。
こうしてX氏は北沢峠まで降りてくると、休憩もそこそこに甲斐駒ケ岳を目指して登り始めました。しかし彼は「登り返し」のつらさを甘く見ていたようです。すぐに足は鉛をぶら下げたように重くなり、息切れも半端ではありません。
予定より大幅に遅れてガスのかかった山頂に着いたのは午後4時過ぎ。少し休んでいこうと腰を下ろしたら、にわかに雷鳴がとどろき大雨となりました。そして日が暮れて雨が小降りになってきた頃、ヘッドランプの明かりを頼りに命からがら七丈小屋へ辿り着いたというわけです。
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