2007/07/28
誌面情報 vol1-vol22
<リスク対策.com 2007年7月号掲載記事>
2003年5月26日に発生した三陸南地震、同年7月26日の北部連続地震と2度にわたる大地震で約30億円を超える被害を受けた企業がある。沖電気工業株式会社(東京都)の半導体製造拠点である宮城沖電気株式会社(宮城県黒川郡:吉岡献太郎代表取締役社長)だ。
「2度の地震が本命(宮城県沖地震)ではないと知った時、さすがに手を打たなければと思いましたね」(吉岡社長)
半導体工場は一度止めてしまうだけで数億円の被害を出すと言われている。宮城沖電気が講じた対策は、建物や設備の徹底した防振・耐震性の向上と、地震の初期微動を感知し大きな揺れが来る前に警報装置を作動させ、危険なガスや薬品の供給を自動遮断するシステムの構築だった。
対策が半ばに差し掛かった時、またしても大地震が同社を襲った。
8・16宮城地震―。
だが、被害は大幅に軽減した。吉岡社長は地震対策の確かな手応えを感じた。
「工場の中は、電気のブレーカーが飛んで空調が止まり、ガスの検知器も作動していませんでしたので、怖くて誰も入れない状況でした。中が燃えているのか、燃えていないのかもわかりません。ただ、社員が全員無事であることだけが確認できました」
2003年5月26日月曜日、夕方6時24分。勤務を終え帰宅途中だった吉岡献太郎社長(当時専務)が会社へ駆けつけて目にしたのは、一見何ともなさそうな工場の外観と、クリーンルーム(作業室)から慌しく退去した社員の姿だった。けが人が出ていないというほっとした気持ちと、工場の中で何が起きているか分からない不安が入り乱れた。
危険性が高い特殊ガスや薬品を扱う半導体工場では、地震によってこれらの漏洩や腐食、火災などが発生する恐れがあるほか、高価かつ精密な生産設備の破損や損傷が生産活動の継続に甚大な影響を及ぼす。夜9時、必要な数の担当者を残し社員を帰宅させ、まずは電気の復旧作業に当たった。火が出ていないことは分かったが、空調、換気扇が作動していない状況ではガスが充満している可能性もあり、中には入れない状態が続いた。
翌未明、空調が復帰。朝9時にようやく工場内に足を踏み入れることができる状態になった。
「実はここからが始まりだったのです」
吉岡社長には、ある程度の覚悟はできていた。しかし、どのような被害で、どのくらいの規模なのかは見当がつかなかった。
工場2階のクリーンルームに入ると、シリコン基板表面の不純物を高温により拡散させる「拡散炉」がすべて壊れていることが確認できた。シリコンのウェハー(半導体素子製造の材料)も相当な数が損傷を受けていた。そして、回路をウェハーに焼き付ける精密装置である露光機の一部にレンズがずれているなどの大きな問題が出ていた。拡散炉や露光機は、メーカーに発注してすぐに調達できるようなものではない。仮に調達できたとしても調整には数日間を要する。被害が数億円規模にとどまりそうもないことは明らかだった。
追い討ちの悲劇
工場が完全復旧するのに要した期間は1カ月。ようやくフル稼働に乗ったと思った瞬間、悪夢は再び同社を襲った。
2003年7月26日午前0時13分、7時13分、そして午後4時56分と1日で合わせて3回の震度6を超える大地震が発生した北部連続地震である。
「いい加減に嫌になっちゃいましたね。本当に疲れた」
吉岡社長にとっては、生涯忘れることができないつらい思い出である。
「でも復旧は早かったですよ。要領が分かっていたから。どの部品をどこから調達すればいいか全部分かりましたし、被災を受けた場所も前回とほとんど同じでしたから」
吉岡社長は、うつむいた顔を持ち上げ、重かった口調から一転し、笑いながらこう切り出した。それは、北部連続地震の発生以後、国、大学、研究機関と、あらゆるネットワークを使って地震に強い企業へと再生した自信の表れにも見えた。同社は、被災から3日後の7月29日、BCM(Business Continuity Management)チーム(当時は危機管理対策委員会)を立ち上げることを決めた。当時、まだほとんど普及していなかった事業継続マネジメントの概念をいち早く取り入れ、被災しても基幹業務、すなわち半導体の製造を早期に復旧できる体制を整備するための検討を開始したのだ。背景には、約30億円もの被害を受けた2度の大地震が、近く必ず来ると言われている本命「宮城県沖地震」ではないと分かったこともある。
「2度目の地震が、あいつ(本命)だったら、もう何の対策も打たなかったかもしれません。本命は必ず来ます」
BCMチームでは「防振・耐震対策」、「地震の予知・検知」「従業員対策」の3つの分科会を作り、宮城県沖地震の想定震度を6として、仮に被災しても24時間以内に最低1本のラインを復旧させる体制を目指すことを目的に走り出した。
企業存続をかけた震災対策
2003年5月と7月の2度の被災で、最も大きな被害を受けたのが回路をウェハーに焼き付けるための「露光機」と呼ばれる設備だった。1台数億円という高額さに加え、新しいものを使う場合にも調整に数日から数週間程度の時間が必要になるため、生産活動へ与える影響が大きい。事業継続を考える上では、この装置をいかに被災から守るかが重要になった。
BCMチームの「防振・耐震」分科会では、まず、こうした精密生産装置そのものの防振・耐震対策と、その装置を支えている床の防振・耐震対策を両面から行うことを検討。大学やゼネコン、研究機関らの協力を得て、想定する宮城県沖地震の震度や揺れの周期、工場の地盤データなどをすべて計算し、建物と床がどのように地震の揺れに応答するかシミュレーションを行った。
その結果に基づき、建物と床の剛性を高める工事に踏み切った。半導体の製造を止めてまで工事を行うわけにはいかないため、無振動による特殊工法が採用された。耐震補強には、一般的にはブレス(筋違い)が用いられるが、床にアンカーを打つ際に震動が起きてしまうため、コンクリートを鉄筋入りの型枠に流し込み耐震壁を数十壁設置することにした。また、重要な設備が集中する2階の床そのものの耐震性を高めるため、床を支えるH杭を数百本増設。このほか、各設備の固定、電源のバックアップの確保、コンピューター類の転倒防止、割れやすい部材の保護などの対策などが講じられた。
3度目に証明した防災力
工事が順調に進む中、それをあざ笑うかのように2 0 0 5 年の大地震「8・16宮城地震」は起きた。8月16日午前11時46分、震度6の地震がまたも宮城の大地を揺らした。対策は万全ではなかった。防振・耐震工事は完成に至っておらず、開発中の緊急地震速報を活用したリアルタイム地震防災システム(後に説明)もまだ導入されていなかった。
それでも吉岡社長の中には不安だけではなく、何か期待感めいたものが芽生えていた。
「ある程度はもってくれるだろうと思っていました」
結果は、明らかに前の2回の被災とは違った。工場はストップしたものの、大きな損害はなく、24時間で1ライン復旧、わずか6日でフル稼働状態にできた。
「抜群に効果がありましたね。2度の地震の後に何も手を打っていなかったら、会社は終わっていたでしょう」
この地震も本命「宮城県沖地震」ではなかった。「来てほしくはないですが、日本のどこにいても地震は来るのです」2度の被災体験で宮城沖電気は、地震を恐れない強い企業に生まれ変わっていた。
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