インタビュー 危機の深層をよむ
京都大学人文科学研究所教授  岡田暁生氏

「音楽の危機―《第九》が歌えなくなった日」(中公新書)著者 京都大学人文科学研究所教授  岡田暁生氏
(10月14日、京都市内)

「ニューノーマル」と呼ばれる行動規範が普及しつつある。働き方の見直しを迫られた企業はデジタル通信環境を整備し、ITセキュリティーや労務管理などの体制を更新。人が集まれない時代に適応しようと準備に余念がない。だがその裏で、近代組織を支えてきた価値観の崩壊が静かに進んでいることは見過ごされがちだ。文化・芸術、スポーツ、イベント、旅行、会食――今何が失われようとしているのか。「音楽の危機-《第九》が歌えなくなった日」の著者で、京都大学人文科学研究所の岡田暁生教授に聞いた。(本文の内容は10月14日取材時点の情報にもとづいています)

本記事は「月刊BCPリーダーズ」11月号に掲載したものです。月刊BCPリーダーズはリスク対策.PRO会員がフリーで閲覧できるほか、PRO会員以外の方も号ごとのダウンロードが可能です。
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根源的な問いが投げかけられている

――9月に『音楽の危機-《第九》が歌えなくなった日』(中公新書)を上梓されました。音楽という分野にとどまらず、社会の危機と行く末をひもとく上で参考になります。コロナ禍の今、端的に何が起きているのでしょうか。
現代の組織というのは抽象的な概念なのか、それとも同じ場所と時間にみなで集まるという具体的な行為を指すのか。今回のコロナ禍で問われているのは、端的にいえばそこだと思います。

例えば大学を考えてみたとき、この4月に入学した学生たちは、おそらく極めて抽象的な感覚を生きている。「京大生」といっても、抽象的な京大生です。逆にこういう状況になってしみじみ分かってくるのは「なるほど、京大生というのはあの大学のキャンパスに何となく集まってよい資格のことだったんだな」ということです。

これは、会社組織も同じでしょう。リモートワークや脱オフィスで離散的な働き方を進めていけば会社は抽象化し、帰属意識といっても、帰属すべきものの実体が見えなくなってしまう。

実際、大学のキャンパスに行けばいろいろな友だちもできるでしょうし、おもしろい先生とも出会えるかもしれません。結局それらは、不特定多数との接触が起点になっているわけです。 

そこに行って何が起きるかは分からないけれど、しかしそうした偶発的な人間関係が、さまざまなアイデアの元になっていた。それがコロナによってできなくなり、ズームなどによる情報通信一辺倒で、いったい人間関係は存在するのか。それが、現代の組織に投げかけられた根本的な問いだと思います。

――実存が揺らいでいる、と。それはまさに音楽が直面している危機なのですね。
要するに音楽の経験が、場所あるいは人が集まるという行為から切り離され、ソフトだけ、コンテンツだけ通信で流したとして、それは音楽を聴いていることになるのかということです。

もちろんみな命は惜しいし、自粛警察に怒られるのも嫌ですから、無茶はできません。しかし不特定多数の人が同じ場所に集まる行為が持っていた何か、パワーとでもいうのか、そういうものを捨てて音楽は成り立つのかについては、一考の余地があるところでしょう。その象徴が、例えばロックコンサートだったり、ベートーベンの交響曲「第九」の大合唱だったりするわけです。

年末恒例となった「第九」の合唱。2019年日本橋三越本店(写真:つのだよしお/アフロ)

少し話が逸れますが、この数週間のトランプ大統領の行動は、私には非常に印象的でした。どれだけ非難を受けても1カ所に対面で集まり、ロックコンサートのようなことをやる。彼は、人が集まることが持っている社会的なパワーをよく知っているのだと思います。

もちろん、結果はどうなるか分かりません。しかしスピーチをオンラインで中継すればよいというものではない何かが、彼の行動の根底にある。問題はそれをどうみるかで、トランプは反社会的だとみるか、しかし何らかのかたちであのパワーを維持しなければ人間社会は成り立たないとみるか。今の問題はそんな話にも置き換えられると思います。