2017/11/13
安心、それが最大の敵だ

都市計画家・石川栄耀の先駆的実践
日本の都市計画を考えるとき、戦前から戦後にかけて活躍した都市計画の先駆者(パイオニア)の一人、石川栄耀(えいよう)の理念と実践を抜きにして考えられない。工学博士石川の卓越した発想や美意識を無視して現代の都市計画は論じられない。石川の人と思想を考える。
「社会に対する愛情、これを都市計画と言う」。こう高らかに宣言する土木技師石川栄耀の高邁な精神と行動力に私は惹きつけられる。近現代日本の都市計画は石川から始まる。石川以前に日本には近代的かつ民主的な価値観を持つ実践的都市計画家は存在しなかった。
石川が決定的な影響を受けたのが、20世紀初頭のイギリスを出発点とする「田園都市(Garden City)」構想であった。生命・環境を優先した緑と水辺の豊かな都市づくりである。人間性尊重と景観美に配慮した都市計画である。この構想を理解しいち早く導入した日本人技師の一人が石川である。彼は、都市計画家がとかく無視しがちな都市における盛り場、商店街、屋外広告の重要性・必要性も強調した。「心のぬくもりのある都市づくり」。それまでにない斬新で柔軟な発想である。
石川は明治26年(1893)9月7日、今日の山形県天童市の没落士族根岸家の次男として生まれた。6歳で母方の実家石川家の養子となる。義父は日本鉄道会社(JRの前身)の幹部技術者だった。埼玉県立浦和中学(旧制、以下同じ)に進学するが、父親の転勤に伴い岩手県立盛岡中学に転校した。第二高等学校 (現東北大学)に進学し卒業後、東京帝大工学部土木工学科に入学する。美しい橋・街並み・公園・水辺の空間を造りたいとの思いからだった。土木工学に技術・機能と共に景観美を求めた。
大正7年(1918)7月大学を卒業し、アメリカ法人の貿易会社建築部などに勤務した後、大学同期・青木楠の薦めで内務省に入省し都市計画技師の第1期生となる。同9年(1920)都市計画名古屋地方委員会(のち都市計画愛知地方委員会)に赴任する。彼は名古屋市の都市計画草創期にあって計画原案の作成に携わりその基礎を築いた。上司は事務官僚で「山林都市」の提唱者黒谷了太郎だった。黒谷はロンドン郊外の田園都市レッチワースの設計者レイモンド・アンウィンと親交があった。石川は都市計画家アンウィンの生命優先の思想に傾倒する。
結婚後欧米に出張し、イギリス、フランス、オランダ、アメリカなどを歴訪した。大正13年(1924)アムステルダムで開催された「国際住宅および都市計画会議」に日本代表として出席した。アンウィンに面会を求め自作の都市計画(海岸線をコンビナート化した案)を示したが、「君の計画にはLife(生命)が感じられない」と酷評された。雷に打たれたような衝撃の一言であった。帰国後、主任技師になった彼は、名古屋市郊外の区画整理を精力的に手掛けて宅地開発や基盤整備を成し遂げた。その手腕を存分に発揮したといえる。
戦中・戦後の苦闘
昭和8年(1933)9月石川は都市計画東京地方委員会に転じ、第一技術掛主任技師に着任する。同13年(1938)興亜院(対中国政策の政府機関)の嘱託となり上海の都市計画立案作業に取り組んだ。その後、大東京地区計画を発表する。同16年(1941)には「防空日本の構成」「日本国土計画論」「都市計画及国土計画」を、翌年には「国土計画-生活圏の設計」を刊行する。一連の構想は後に首都圏整備計画に盛り込まれていく。日本は太平洋戦争突入という最悪の時局を迎えた。
昭和18年(1943)東京都発足に伴い東京都計画局職員となる。同時に東京帝大、早大の非常勤講師も務める。東京美術学校(現東京芸大)では都市景観を教え、東京高等師範学校(東京教育大学を経て現筑波大学)や工業専門学校で技術文明論を講演した。同年道路課長に就任し、同19年(1944)都市計画課長を兼務して戦時下の東京の戦災復興都市計画に着手する。隣保地区計画を作成と同時に『皇国都市の建設』を発表し、大都市疎散論を展開する。有事に際し都市人口を周辺地域に移転させる計画である。
昭和20年(1945)敗戦。戦災復興院の発足時、総裁小林一三から工務課長就任の打診を受けるが辞退し、東京の復興に全力をあげる。翌年東京の土地区画整理事業区域を計画決定し、帝都復興計画概要案を立案する。「都市復興の原理と実際」を発表した。敗戦後廃墟となり財政難にあえぐという最悪の条件下で、東京都復興の最高責任者となり寝食を忘れて計画の実現を推進した。
GHQ監視の中での戦災地復興には無理難題が山積したが、国や東京都には解決のための財源がなかった。新宿・角筈(つのはず)を区画整理して広場を生み出し、大劇場、映画館、演芸場の立ち並ぶ娯楽センターに再生する計画を地元住民とともに作成した。彼は町名を「歌舞伎町」と命名した。昭和23年(1948)東京都建設局長に就任する。同24年(1949)、日本都市計画学会が設立されたが、彼は発足首唱者の一人で副会長に就任した。没後その業績を讃えて同学会に「石川賞」が設けられた。
昭和27年(1952)復興区画整理第一地区に指定していた東京・麻布十番地区の土地区画整理がまとまり、現代的「店街広場」が生み出された。彼は全国150を越える地方自治体の都市計画に直接または助言者として携わった。東京都心、名古屋市、那覇市、盛岡市、金沢市、四日市市、高知市、栃木市などの「街づくり」には石川構想が生かされている。昭和30年(1955)9月26日急逝した。享年62歳。
参考文献:拙書「評伝 石川栄耀」(鹿島出版会)、土木学会関連文献、筑波大学附属図書館文献
(つづく)
安心、それが最大の敵だの他の記事
おすすめ記事
-
自社の危機管理の進捗管理表を公開
食品スーパーの西友では、危機管理の進捗を独自に制作したテンプレートで管理している。人事総務本部 リスク・コンプライアンス部リスクマネジメントダイレクターの村上邦彦氏らが中心となってつくったもので、現状の危機管理上の課題に対して、いつまでに誰が何をするのか、どこまで進んだのかが一目で確認できる。
2025/04/24
-
-
常識をくつがえす山火事世界各地で増える森林火災
2025年、日本各地で発生した大規模な山火事は、これまでの常識をくつがえした。山火事に詳しい日本大学の串田圭司教授は「かつてないほどの面積が燃え、被害が拡大した」と語る。なぜ、山火事は広がったのだろうか。
2025/04/23
-
リスク対策.com編集長が斬る!今週のニュース解説
毎週火曜日(平日のみ)朝9時~、リスク対策.com編集長 中澤幸介と兵庫県立大学教授 木村玲欧氏(心理学・危機管理学)が今週注目のニュースを短く、わかりやすく解説します。
2025/04/22
-
帰宅困難者へ寄り添い安心を提供する
BCPを「非常時だけの取り組み」ととらえると、対策もコストも必要最小限になりがち。しかし「企業価値向上の取り組み」ととらえると、可能性は大きく広がります。西武鉄道は2025年度、災害直後に帰宅困難者・滞留者に駅のスペースを開放。立ち寄りサービスや一時待機場所を提供する「駅まちレジリエンス」プロジェクトを本格化します。
2025/04/21
-
-
大阪・関西万博 多難なスタート会場外のリスクにも注視
4月13日、大阪・関西万博が開幕した。約14万1000人が訪れた初日は、通信障害により入場チケットであるQRコード表示に手間取り、入場のために長蛇の列が続いた。インドなど5カ国のパビリオンは工事の遅れで未完成のまま。雨にも見舞われる、多難なスタートとなった。東京オリンピックに続くこの大規模イベントは、開催期間が半年間にもおよぶ。大阪・関西万博のリスクについて、テロ対策や危機管理が専門の板橋功氏に聞いた。
2025/04/15
-
BCMSで社会的供給責任を果たせる体制づくり能登半島地震を機に見直し図り新規訓練を導入
日本精工(東京都品川区、市井明俊代表執行役社長・CEO)は、2024年元日に発生した能登半島地震で、直接的な被害を受けたわけではない。しかし、増加した製品ニーズに応え、社会的供給責任を果たした。また、被害がなくとも明らかになった課題を直視し、対策を進めている。
2025/04/15
-
-
生コン・アスファルト工場の早期再稼働を支援
能登半島地震では、初動や支援における道路の重要性が再認識されました。寸断箇所の啓開にあたる建設業者の尽力はもちろんですが、その後の応急復旧には補修資材が欠かせません。大手プラントメーカーの日工は2025年度、取引先の生コン・アスファルト工場が資材供給を継続するための支援強化に乗り出します。
2025/04/14
※スパム投稿防止のためコメントは編集部の承認制となっておりますが、いただいたコメントは原則、すべて掲載いたします。
※個人情報は入力しないようご注意ください。
» パスワードをお忘れの方