営団地下鉄原案と太田の自殺

このような観点に立って、太田は、省線電車とくに山手線の各駅を市内高速鉄道の終点とすること、すなわち路面電車に代わる高速鉄道を山手線の内側に建設すべきとして主張する。この高速鉄道の路線網について、太田は、それまでのいくつかの出願・免許路線では、都心部における路線配置という点で問題があるとして、ヨーロッパの大都会における高速鉄道の計画に際して提起されているいくつかのパターンを紹介し、都心部における目的地への移動の際の乗換回数をなるべく少なくするという立場に立ち、しかも東京の場合、南東方向が海であるという条件に立ってパターン図を描いた。

このパターン図にしたがって、太田は路線図について2つの案を考えた。それまでの計画路線がいたずらに多くの路線を構想していたのに対し、彼の案は2つとも5路線として建設費を節約し、乗換駅は線路が上下に交差する方式をとり、乗換のための移動を立体移動ですむように考案した。この路線の案をつくるうえで太田が配慮した条件は、次のようなものであった。

1.省線電車線を基幹とすること。
2.省線相互の連絡設備、停車場間の距離、実際の運転能率と利用者の便宜を考慮すること。
3.路面電車のような補助交通機関との「融合」を考慮すること。
4.路線ルートの地形や地質を考慮すること。
5.市内交通の「大局」から見た合理的な運転系統を考えること。

この路線図は、それまで立てられたいくつかの計画とまったく異なり、上記の条件を踏まえた合理的な根拠によって作成された。

東京における高速電車の計画は、太田の構想において、はじめて、科学的・合理的な基礎に立ってまとめられたのである。この路線網が発表された直後、東京市は大正14年1月8日に市営の高速鉄道5路線の建設を出願し、5月16日に免許を得た。この路線は、太田が構想した2つの案とルート・パターンがよく似ている。おそらく太田の案に基本的なパターンを倣ったものと考えられる。その中で2点だけ異なる所がある。一つは太田案の高田馬場で接続する線を外し、大塚に接続する線を挙げていること。二つ目は亀戸駅に接続する線を途中の押し上げで切っていることである。郊外との連絡を考えれば高田馬場の重要性が認識されてしかるべきであるのに、大塚を選んだ理由は不可解である。また亀戸との接続をとらなかった理由についても、当時工場地帯の通勤需要が増大していた事情を考えると、これも不可解と言うしかない。

これらの高速鉄道を計画するに当って、太田は、当時としては旧来のしきたりを打破する斬新な方式を提案した。それは、省線電車の3線やこの高速鉄道線をまとめて半官半民の経営組織を作り、この組織が運営に当るべきであるという主張であった。1920年代に入って、ヨーロッパの大都会では都市交通機関の市営を止め、公社組織による運営体制をとる方向に進んでいた。それは都市の巨大化による交通問題に対応するための措置であった。
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日本では1930年代(昭和初期)に入ってからこの方策についての調査が始められ、昭和13年(1938)陸上交通事業調整法が公布されて、大都市における交通機関の合同を中心とする交通調整事業が開始された。しかし、東京を例にとって見ると、鉄道省と東京市との協議が成立せず、省線電車と東京市電はそのまま、地下鉄道を中心に昭和16年(1941)帝都高速度交通営団が設立され、その他の地域別の企業合同が実施されたが、都市交通機関全体の公社組織化はついに実現しないで終わった。それは、現代に至るまで続く東京および周辺の交通問題の根源となっている。ヨーロッパの都市交通についての対策を学びながら、東京の交通問題の解決のためにこのような提案を行った彼の先見性は高く評価されなければならないであろう。

才人としても知られた太田圓三は、大正15年(1926)3月21日、文京区の自宅で突然心臓をナイフで突き刺し命を絶った。享年45歳。用地買収にからむ土地利権屋と復興局職員の汚職事件が発覚し、鉄道省から復興局経理部長に出向し、当時鉄道省に帰って経理局長の職にあった十河信二までが逮捕されるという重大事が引き起こされていた。太田の心痛はその極に達していたと言われる。後藤新平に近い十河の逮捕は、その背後に政友会系の陰謀を推測させるものがある。政党政治家が引き起こす軋轢は、「伏魔殿」とされる東京市議会を中心に展開される利権争いそのものであった。醜い利権抗争の中で、復興事業の中心として作業を進めることは、通り一遍の神経では不可能であろう。

そのうえ鋭敏な太田は、内務官僚の詭弁ともいうべき議論を着任早々に経験していた。復興事業の予算に高速鉄道の建設費をいくらかでも組み込むことを提案した彼に、社会局長官帝都復興院理事の職にあった池田宏は「国民全体の税負担で、東京の人の便利を図る事業を起こすことは認められない」と言って反対した。その場しのぎの詭弁を使う官僚どもとも対決しなければならない激職というべき職務が、土木部長には負わされていたのである。