帝都復興計画第一案の一部(伊東市教育委員会蔵)

地下鉄構想の原点

大正8年(1919)4月に公布された都市計画法により、市区改正事業を引き継いであらたな近代的都市計画が進められるところまで漕ぎつけた東京の都市改造は、震災計画が圧縮された結果、不徹底なものとなってしまった。

大きなマイナスを抱えた状態の中で、鉄道省建設局工事課長から帝都復興院土木局長に抜擢された<切れ者>鉄道技師・太田圓三は、東京及び周辺の鉄道網のあり方について大胆な積極的改良策の提言を行った(太田の実弟に詩人・医学者木下杢太郎がいる)。大正13年2月23日の官制改正によって帝都復興院が内務省の外局と「格下げ」された後は、彼は内務省復興局土木部長となった。都市計画の近代化を重視する太田は、道路・鉄道・橋梁・運河・公園・中央卸売市場など都市施設と区画整理事業の進捗と、両面にわたる全般的な視点に立って復興計画を立案・実施する中心人物としての役割を果たしていく。

文才に恵まれた太田は、みずから統括する事業の内容を「帝都復興事業に就いて」との冊子にまとめ、大正13年10月復興局から刊行し、翌年8月その増補第2版を刊行した。国民、中でも被災者に知らせることこそ公共事業の使命である、と考えた。冊子といっても、B5判本文187ページ、付図51葉、写真29葉というかなりの量の中間報告というべきもので、その周到な既述の内容は、復興計画の全体像はもちろん、個々の部門にいたるまでゆきとどいている。ち密な頭脳によって作成された計画の全容と、事業の推移を知る上で最良の報告書としての価値を持っている。
                ◇
同冊子の「十九 東京の高速鉄道」を取り上げる。この中で太田は、まず路面電車の輸送力が限界に達している状況を指摘し、全体から見て高速電車を市内交通の幹線とし、路面電車を補助線とし、さらに乗合自動車(公営バス)にその補足をさせるという体系を主張した。この高速電車としては、彼はまず「省線電車(今日のJR線)」の路線網を中心に考える必要があると指摘する。彼はその路線網が不完全であるとして鉄道省が立てた改良計画には必ずしも賛成できないと述べている。路線網の不完全という指摘は、そこでは具体的には示されていないが、南北縦貫線の東京~上野間、東西横断線の御茶ノ水~両国間が結ばれていない点を指していると考えてよいであろう。その不完全の原因として太田が指摘するのは、これらの路線がもともとは長距離列車専用として建設されたものが、時勢の要求に引きずられて市内高速鉄道線となったものであるとした点であった。しかも市街地形成という点から見ると、山手、中央、京浜といった省線電車各線の沿線に市街地が発達し、そのことが東京の市街地の「偏倚的(へんきてき)なる不規則の発達」をもたらしたと指摘する。