米軍海軍基地となった横須賀造船所跡地(現状、提供:高崎氏)

横須賀工場の着工と資金難          

この慶応元年3月、横須賀工場の鍬入れ式を挙行して敷地の整地にかかり、すっかり出来上がった5月、ヴェルニーが多数のフランス人職工を連れて到着した。資材も相次いで到着する。建設にかかった。

ところが、意外な外交問題が起こった。日仏合弁の生糸専門の貿易商社をつくるということがパリ財界に来ている公使らに訓告があったのだろう。フランスを除く外交団が最も強硬な態度で幕府に抗議したのである。

「各国と通商条約を結びながら、ある産物を特定の国にだけ輸出するのは万国公法違反である」。

幕府首脳は驚き狼狽した。小栗はその渦中にあった。元来240万ドルという巨額な費用のかかる横須賀製鉄所建設にあえて踏み切ったのは、生糸専売の商社からの利益を当てにしていたからのことである。幕府では各方面に了解を求めようとした。だが、とても理解を得られなかった。遂に商社計画はご破算となった。

幕閣、中でも小栗は苦境に陥った。幕府は長州再征にかかっており、将軍家茂は大坂まで旗を進めている。この軍事費だけでも財政は四苦八苦だ。その他に240万ドルなどという大金は捻出できない。ここで救いの手を差し伸べたのが、ロッシュだ。ロッシュは「フランス政府が仲介して、フランスのソサエテ・ゼネラルから600万ドル(今日の約600億円)が借りられるようにして差し上げた」と申し入れた。

その上、ロッシュは言う。

「長州のことは徳川家にとって大厄難でありますが、これを転じて大幸となす法があります。この度のことを機会にまず長州を倒し、次に薩摩を倒しなさるがよい。この両藩がなければ、天下に徳川家に反抗するものはありませんから、諸藩を廃止して、徳川家を中心とする中央集権郡県の制度としなさい。世界の列強は現在では皆この制度になっています。ついては600万ドルのほかに、軍艦や兵器も年賦でご用立てしましょう」。

「地獄に仏」だった。ことは政事総裁の一橋慶喜、老中、勘定奉行小栗、その他数人の幕閣だけが知っているのみで「秘中の秘」(極秘)として運ばれた。
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この3年後、最後の将軍・徳川慶喜が薩長閥の新政府へ恭順を表明すると、小栗はこれに猛然と反対し辞職した。その後、隠棲の地・上州権田村(現群馬県高崎市)で新政府軍により無残にも斬首された。何の取り調べもない問答無用の処刑であった。英才の哀れな末路であった。享年42歳。

参考文献:「小栗上野介忠順と明治維新」(高橋敏)、「小栗忠順のすべて」(村上泰賢編)、筑波大学附属図書館史料。

(つづく)