1948年に吉崎地区を襲った福井大地震

石川県加賀市内の小学校で校長を務めていた竹本氏は、2011年の東日本大震災の発生を機に、地区の防災に力を入れ始めた。東北の惨状を見たことで1948年に発生した福井大地震を思い出し、「子どもたちを守るために何かしなければ」と考えたという。1948年6月28日に発生した福井地震は、福井県坂井市を発生源としたマグニチュード7.1の直下型地震で、死者およそ3800人、負傷者2万2000人、全壊家屋3万6000戸を超える惨事となった。三木地区公民館の裏には、当時の三木村長が揮き毫ごうした地震を風化させないための記念碑も残っている。地元では「福井烈震」「北陸大震災」とも呼ばれ語り継がれてきたが、発生から67年を経て、当時の記憶も風化しているという。竹本氏らは三木地区まちづくり推進協議会のメンバーを中心に防災活動を強化。三木地区防災士・防災リーダーの会を新設するとともに、加賀市の防災担当課や消防署と連携して防災講習会を開催するなど、体制を整えた。防災講習会では各町住民が震災の記憶を後世に伝えることで、避難施設に必要な備蓄や避難経路の見直しを図った。三木地区全体を前提として防災講座を開催しても、集まるのは各町の代表者だけになってしまうため、7つある町ごとに防災講座を開催。住民に対しての防災意識向上に取り組んだ。

「防災講習会で住民に繰り返し伝えたのは、子どもにちゃんと伝えてほしいということ。福井大地震を当時の村長が現在に伝えているように、子どもたちに防災の大切さを知ってもらうことが最も大事なことだと話した」(加賀市総務部防災対策課係長の南出寛人氏)。

 

子ども中心の町づくりと防災活動

「無理をしないでみんなで一歩」を合言葉に、三木地区の防災への取り組みは着実に成果を上げていった。「いのちの道」マップを作成し、避難所への道筋を表示。年1回の三木地区一斉避難訓練を開催したほか、防災訓練アンケートを毎回全戸数対象で行い、結果を公表して次回の活動のヒントにした。また、子どもたちが自らの命を守るために適格な判断力と行動が取れるよう、加賀市防災コミュニティスクールや市教育委員会と連携。その活動は内閣府主催の「避難所における良好な生活環境対策」の参考事例として取り上げられるようになった。

 

三木地区では、従来から子どもを中心にまちづくりを進めていたという。三木地区公民館では「三木っ子いきいき塾」を開催し、地域の大人たちが先生となって子どもたちに三味線や囲碁、焼き物などを教えていた。公民館は毎日、放課後子どもたちに開放し、学びと遊びの場になっている。大人たちが積極的に子どもたちに関わることによって、建前だけでないコミュニケーションを深めているという。三木小学校の学校評価項目として子どもたちに「三木地区が好きですか?」というアンケートを取っているが、毎年ほとんどの子どもが「大好き」と回答している。自主防災会の規約にも、「未来ある子どもたちに防災教育をすること」を第1に掲げた。

竹本氏は「防災活動はまちづくりの評価。これからも子ども中心の防災活動を、町づくりの基本にしていく」と強調する。

避難先が他県に。訓練で浮き上がった問題

2014年12月、三木地区の防災の取り組みを地区防災計画に落とし込む作業に入り、浮き上がったのが吉崎地区周辺の県境をまたいだ状況だった。加賀吉崎では、市が指定する避難所に逃げ込むには、一度橋を渡らなければならない。津波や浸水が懸念される中で、橋を渡って避難するのは危険がともなう。一方で越前吉崎には高台に吉崎小学校が存在するため、石川県側の住民も福井県側に逃げ込む方が合理的だ。そのため三木地区では、吉崎小学校と交渉し、避難所として活用できるように申し入れをしていた。

 

三木地区の地区防災計画策定アドバイザーとして携わった長岡造形大学建築・環境デザイン学科准教授の澤田雅浩氏は「吉崎町の状況を聞いているうちに、これは県境をまたいで防災計画を策定する必要があると思った。行政主導では県をまたぐことは難しいが、住民主体で作る地区防災計画であれば、策定が可能だと考えた」と話す。

同じ土地に暮らすため、県境をまたいでも住民のほとんどは顔見知りだ。親戚同士が県をまたいで暮らしていることもあるし、小中学校とも越境して進学することは珍しくない。それでも、福井県と石川県の被害想定が大きく違うことは、福井県側では昨年12月に石川県側から話を持ちかけるまでは知らなかったという。

そもそも、津波の被害想定は算出方法が難しい。東日本大震災以降、国の被害想定が見直されているとはいえ、複数の断層が連動する最悪の想定までにはいたっていない。2007年に能登半島地震で300人近い負傷者を出した石川県は、国の想定よりも厳しい条件で被害状況を想定していた。反対に、越前吉崎がある福井県あわら市は、その海側のほとんどが高い岸壁であったため、国の想定をなぞるものになっていた。

「想定が違うことは大した問題ではない。実際に地震が発生し、石川県側の住民が福井側の小学校に逃げ込んだ場合、どのような事態が発生するか、しっかりお互いが話し合っておかなければいけない。地区防災計画策定がその突破口になればいいと考えた」(澤田氏)。

しかし、福井県側に地区防災計画策定の話をもちかけても、福井県側としてはちょうど区会長が変わったことや、市の状況が整っていないこともあり、当初は及び腰だったという。それでも、竹本氏らの説得により福井県側の意識も少しずつ変わっていった。さらに地元新聞やテレビなどに取り上げられることにより、住民も「やらなければいけない」と思い始めるようになったという。