批准書交換                        

4月3日。批准書交換の日であった。午後からデュポン大佐、リー大佐、レドヤード国務長官秘書官らの案内で、三使、御勘定組頭、調役、御徒目付らが普段着のまま下役を伴って馬車で国務省に赴いた。国務長官ルウィス・カスの執務室に入ると他に政府高官や書記官なども日本使節を待ち受けており、特段の儀礼もなく、カスの机の上で批准書を取り交わした。

日本側の批准書は日本語で書かれており、表紙は大和錦(唐錦をまねたもの)を紅の糸でとじている。奥書きには外国事務閣老(老中)と大君(将軍)の署名と花押(判)がついており、オランダ語訳が添えてある。それを黒塗の箱に入れ、銀の環(たまき)と紅色の紐で結び、紅綸子(べにりんず、絹織物の一種)の袱紗(ふくさ、風呂敷より小さい絹布)に包まれている。アメリカ側のものは英語で書かれていて、大統領と国務長官の署名が付いている。オランダ語訳も添えられており、綴じ糸の先を寄せて赤い封蝋(ふうろう)をし、銀の金具のついた箱に入れてある。

日米双方が条約を批准した証(あか)しとして、日本側は和文に全権・新見、村垣、小栗の3人が署名し、カス国務長官は英語の証書に署名して、互いにオランダ語訳を添えて交換した。批准書交換後、日本使節一行はいったんホテルに帰った。

大統領謁見と批准書交換という最重要の外交案件をつつがなく終わらせた後もワシントン在住の政府高官らが妻子を連れて日本人一行に面会に訪れた。一度に100人も来ることも珍しくなかった。中には商人や農民もいた。幕府高官小栗には不思議でならなかった。

77人のサムライの帰国後は、尊王攘夷の暴風の中で、不運の最期を遂げた者が少なくないことは銘記すべきことだろう。薩長藩らの国粋主義者らから「西洋かぶれ」と見なされた。小栗は薩長軍によって「問答無用」と斬殺されたのであった。

参考文献:「77人の侍アメリカに行く」(レイモンド服部)、「万延元年の遣米使節団」(宮永孝)、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)