消えた日本選手

マラソン中に消えた日本人の話は地元で開催されたオリンピックの話題の一つとしてスウェーデンではしばらく語り草となっていた。また、マラソンを途中で止めた理由として、単にソレントゥナ(Sollentuna)のとある家庭で庭でのお茶会に誘われ、ご馳走になってそのままマラソンを中断したという解釈も示された。

当時の金栗はランナーとして最も脂ののった時期であり、大正5年(1916)のベルリンオリンピックではメダルが期待されたが、第一次世界大戦の勃発で開催中止となり出場することができなかった。その後、大正9年(1920)のアントワープオリンピック、大正13年(1924)のパリオリンピックでもマラソン代表として出場した。成績はアントワープで16位、続くパリでは途中棄権に終わっている。

大正6年(1917)、駅伝の始まりとされる東海道駅伝徒歩競走(京都の三条大橋と東京の江戸城・和田倉門の間、約508km、23 区間)の関東組のアンカーとして出走した。大正9年(1920)、第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が開催され、金栗もこの大会開催のために尽力している。第1回大会の優勝校は金栗の母校・東京師範学校だった。

54年と8カ月6日5時間32分20秒3

昭和42年(1967)、スウェーデンのオリンピック委員会からストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待された。ストックホルムオリンピックでは棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走って、場内に用意されたゴールテープを切った(日付は1967年3月21日)。この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8カ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた。54年8カ月6日5時間32分20秒3、という記録はオリンピック史上最も遅い!マラソン記録であり、今後もこの記録が破られることは無いだろう。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」と歓喜の声をあげた。

金栗が残した有名な言葉として「体力、気力、努力」が知られている。

晩年は故郷の玉名市で過ごし、昭和58年(1983)11月13日92歳で逝去した。金栗の功績を記念して富士登山駅伝及び東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)に「金栗四三杯」が創設されている。富士登山駅伝では一般の部の優勝チームに対して金栗四三杯が贈呈されている。また、箱根駅伝では2004年より最優秀選手に対して金栗四三杯が贈呈されている。他に「金栗記念選抜中・長距離熊本大会」や「金栗杯玉名ハーフマラソン大会」のように「金栗」の名を冠した大会もある。金栗は紫綬褒章を授与された。玉名市名誉市民である。

参考文献:「嘉納治五郎」(講道館)、「金栗四三」(佐山和夫)、「日本スポーツ創世記」、筑波大学付属図書館資料。

(つづく)