交渉の勝ち負けによって国家は存亡の危機にも立たされる(イメージ:写真AC)

交渉の勝ち負けによって起きる悲劇の歴史

さて、交渉の目指すものが「全体最適」か「部分最適」かの違いでリスクが大きく異なることは前稿まででご理解いただけたと思う。今回は、その補足的意味も込めて「部分最適」の交渉によって起きる悲劇を、歴史的事実を例にあげて論じたい。

歴史は事実にもとづいた考察であるべきだが、その裏にある原因などの部分は解釈に委ねられることも多い。解釈であるがゆえに複数の説が存在する場合もある。そして解釈は合理的論理性を保つべきだが、定説というのはそうとは限らないのも事実であり、首を傾げることも少なくないのが現実だ。このことが、解釈の踏まえ方をさらに複雑にしている。

これから示す歴史は、筆者の解釈的な要素も含めていることを最初にお断りしておきたい。

前置きが長くなったが、事例としてあげたいのは、日露戦争におけるポーツマス条約交渉とその後の日比谷焼き討ち事件、桂・ハリマン協定破棄につながる一連の流れである。

この話を取り上げるのは、この時の情報環境の影響を受けて行われた交渉やその選択が、日本敗戦、国家存亡の危機にまで向かわせたターニングポイントだと考えるからだ。定説としては、日比谷焼き討ち事件は大正デモクラシーのさきがけのように前向きに解釈されてもいるが、筆者はそのこと自体が本質から目を背ける目的があるのではと疑うほどである。

日露戦争の講和交渉のテーブルに日本は有意なかたちで着いた(イメージ:写真AC)

日露戦争は旅順攻略、奉天会戦、日本海海戦と、日本が部分的とはいえ優勢で進み、第1次ロシア革命でのロシア国内の混乱もあって、講和交渉のテーブルに優位なかたちで着いている。しかし日本側の実態は、資金力も乏しく、継戦能力が失われ、早期停戦での幕引きが必要な状態に陥っていて、講和を急ぐべき状況であったことはいまでは広く知られている。

一方で、日本国内は戦勝ムードに沸き、戦争継続を望み、領土や賠償金獲得を求める声が異常なほどに高まっていた。この状況は交渉のテーブルに着く立場としては極めて難しい環境条件であっただろう。その理由は、現実的なBATNA(Best Altenative To a Negotiated Agreement)やZOPA(Zone Of Possible Agreement)と国民世論が求めるBATNA、ZOPAが大きく乖離しているからだ(BATNA、ZOPAの意味は前稿参照)。

日露戦争の講和交渉において、現実に日本はプラスアルファを勝ち取っている(イメージ:写真AC)

実際の交渉は、筆者の知る限り、現実的なBATNAを設定して交渉に臨んでおり、そのすべての条件はクリアし、むしろプラスアルファも勝ち取っている。そう、現実には全体最適より日本側の個別最適に偏っているといってよい妥結を得ている。いや、それどころかロシア側のBATNAを踏み越えているといっても過言ではない。いわゆる「ケンカ交渉」で勝ち取った結果に近いのではないだろうか。

しかし、日本国内世論は「弱腰外交」と批判を高めたのだ。もっと勝ち取るまで戦争を続けろと。