■その必要性を店員さんは熱く語った
数年前、ハルトが本格的な登山装備を買い揃えるために、登山用具店を訪れた時のこと。彼は店員さんからあれこれていねいな説明を受け、納得し、「では、あれとこれとそれを買うことにします」と決意表明しました。何となく割高なものを勧められたなあという気持ちが多少なかったわけではありませんが、機能性もデザインも気に入っていたので、品揃えにはおおむね満足しています。
しかし、店員さんが熱心に勧めてくれたにもかかわらず、とうとう買わずに済ませたアイテムが1点あります。それが「トレッキングポール(登山用のストック)」でした。帰宅途中の電車の中で、登山用品の入った大きな手提げ袋を眺めながら、ハルトは店員さんに「トレッキングポールを持つことのメリットは何ですか?」と尋ねたことを思い出していました。店員さんは元気よく答えました。
「まず、両手で支えるからバランスがとれます。足場が不安定な山道を歩く際にも安心して歩けますよ。次に、交互にスティックで地面を突くから適度の推進力が得られて登りが楽になります。それと下りの時ね。これはトレッキングポールの本領を発揮できる場面といってもよいでしょう。ザラザラの乾いた斜面とか、雪渓とか、雨や雪で濡れた滑りやすい下り坂とか、トレッキングポールがブレーキの代わりになって転倒や滑落を防いでくれます。使い方ですか? それでは私が実際に突いて歩いてみましょう」
■あるあるネガティブな光景の数々
確かに店員さんの説明は的を射たものでした。しかしハルトは、説明を聞きながらもう一方の頭でさまざまな光景を思い出していたのです。平坦な山道なのにざっくざっくとトレッキングポールを地面に突き刺しながら歩く多くの登山者たちを。
草木を蹴散らし、地面をほじくり返すことをなんとも思わない人たち。あるいは、先端に安全カバーもつけずにトレッキングポールを前後に振りながら登る人。後ろを歩いていたハルトの顔にポールの先端が危うく当たりそうになり、冷や冷やしたものです。
「高齢登山者が足腰の衰えをカバーするためにこの種のストックを使うのはわからないでもないけど、若きもとなると大いに疑問だ。僕にはネガティブな側面しか思い浮かばないのだが…」とハルトは考えます。
そもそも昔は、よほどの重装備の人でもない限り、杖やストックを使う人はいなかったと山の本にも書いてあります。たいていはリュックの重みを全身で受け止め、心持ち重心を低くし、両手、両足でバランスをとりながら、一歩一歩地面の感触を確かめるように歩いていたのです。
ところが今日では、バランスの維持や推進力、ブレーキの役割を自身の身体ではなくトレッキングポールという道具にあずけている。これでは自分の体力と運動神経を総動員して滑落や転倒から身を守るような歩き方から遠ざかっているのでは? ひとたびバランスを崩せば、トレッキングポールを持っていようがいまいが瞬時に自力でふんばるしかないだろうし…。
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