クリスチャン広井勇(東京帝大工学部主任教授時代、提供:広井家)

東京帝大教授・土木技師・広井勇、継承した精神

学生・広井勇はホィーラーの決定的ともいえる人格的影響から出発して師と同じ土木工学の道を歩む。ホィーラーが広井に伝授したエンジニア精神とは何であったのだろうか。それはキリスト教を中核とするエンジニア精神の練磨である。人間性に思いを致さないテクノロジー開発は人類の文明に逆行するものであり、人類破滅をもたらすだけである。

広井の葬儀の際、雨に打たれながら追悼の辞を読み上げた知友・内村は断言した。

「広井君ありて明治・大正の日本は<清きエンジニア>を持ちました。日本はまだ全体に腐敗せりと言うことは出来ません。日本の工学界に広井勇君ありと聞いて、私共はその将来に就き大いなる希望を懐いて可なりと信じます。(中略)。君の工学は君自身を益せずして、国家と社会と民衆とを永久に益したのであります。広井君の工学は基督教的紳士の工学でありました。君の生涯の事業はそれが故に殊に貴いのであります」。

近代日本土木界の先駆者・工学博士・広井勇の67年間の生涯は、未踏の道を果敢に歩む自己研鑽のそれであった。彼は日本土木界の黎明期である明治・大正期にあたかも高峻な峰のように屹立(きつりつ)する孤高の土木技術者である。

彼はなぜ「清きエンジニア」たりえたか、を考えたい。学生時代にキリスト教伝道師を志した広井は、卒業を前にその道を断念する。その理由を彼は内村に告白している。

「この貧乏国では食糧提供のことを考えずに宗教だけを教えても益がない。僕は今から伝道の道を断念して工学に入る」。後年、内村は「君は言葉をもってする伝道を断念して事業を以てする伝道を行われた」と評する。

札幌農学校卒業後の広井の足跡を確認する。社会人となった広井は自ら進んでキリスト教徒であることを名乗ることはなかった。ホィーラーを頼ってアメリカに単身渡った彼は、国費留学生のような恵まれた境遇にはない。河川改修や鉄道建設の現場さらには橋梁工場で働き、技術者として進んで設計施工に従事して生活費を確保しながら懸命に自己研鑽を重ねるのである。英語に不自由しなかったことは札幌農学校で教育を受けた者の特権であった。

彼が土木現場で学んだことは公共事業を推進する技師の精神とは何か、ということである。彼にとっては、土木工学とヒューマニズムは不可分なのである。睡眠時間を惜しむ外国での孤独な自己研鑽は、英語版ハンドブック“Plate-Girder Construction”(プレート・ガーダー・コンストラクション)刊行となって結実する。ホィーラーの支援があったことは言うまでもない。

27歳の日本人土木技術者がアメリカの専門出版社から刊行した英文デビュー作「橋梁技術書」はアメリカ国内で評価を受け、1世紀を過ぎた今日でもアメリカの主要な大学図書館には保存されている。滞米中、彼はしきりにアメリカ、イギリスをはじめドイツ、フランスなどの歴史書や文学書を原書で読破している。名著を幅広く読むことで「血の通う」芸術性あふれる土木技術者精神の確立を目指したと考えたい。

彼はその後母校札幌農学校の助教授に任命され、ドイツに渡り当時最新の構造力学を学んでいく。帰国後、直ちに教授となる。28歳の若き教授である。明治30年(1897)に彼は小樽築港事務所長となる。彼はそれまで築港技術を学んだことはなかった。ここでも自己研鑽である。10年余をかけた防波堤工事の完成によって小樽港は国際貿易港に変貌し、港湾技師広井の名は広く知られるようになった。

その後の工学博士号取得もあって、彼は東京帝大土木工学科に教授として招かれた。帝大卒ではない彼は、学閥の逆風に耐えることになるが、土木工学(特に港湾工学と橋梁工学)で彼の右に出る研究者はいなかった。高度な理論と労苦をいとわない現場第一主義を兼ね備えていたからである。橋梁工学、港湾工学、ダム技術、河川改修、コンクリート工学・・・。すべて自己研鑽により高度の専門性を習得したのであり、港湾工学では「広井公式」を残している。不朽の公式である。「きら星のような」(土木工学者の評)優秀な門下生を多数世に送り出した。

広井は著名な東京帝大教授でありながら、帝大の権威主義や立身出世主義には終始批判的であった。「技術者で色んな手ずるを求めたり妙な所をくぐって職を求め、何々課長になったとか、局長になったとか言われている人もあるようだが、そんな人はさぞ寝心地が悪いことだろう。工学者たるものは自分の真の実力を持って、世の中の有象無象に惑わされず、文明の基礎付けに努力していれば好いものだ。だから又工学者たるものは達観が利く者でなければならん」。

門下生への忠告である。明治38年(1905)、広井は橋梁工学の独創的英文名著“The Statically –Indeterminate Stress in Frames, Commonly Used for Bridges”(橋梁理論)を前回同様アメリカの出版社から刊行した。これにより国際的にも土木学会ではDr.Hiroi(広井博士)の名は不動のものになった。広井は大学の定年制導入に反対して定年を待たずに退官する。彼は晩年に語っている。

「もし工学が唯に人生を繁雑にするのみのものならば、何の意味もないことである。これによって数日を要するところを数時間の距離に短縮し、一日の労役を一時間に止め、人をして静かに人生を思惟せしめ、反省せしめ、神に帰る余裕を与えないものであるならば、我等の工学にはまったく意味を見出すことができない」。

天才級の工学博士が自己研鑽の末にたどり着いた人生訓であることに深く思いをはせたい。

参考文献:拙書「アメリカ人青年教師ウィリアム・ホィーラー」(鹿島出版会)、同「山に向かいて目を挙ぐ 工学博士広井勇の生涯」(同前)

(つづく)