汚点となった払い下げ

開拓使は、札幌農学校や広大な官園(農事試験場)において、技術者の養成と西洋式農法の導入を図りつつ、ビール、製粉、精糖、製麻、製材などの各種工場を設立し、鉱山開発や鉄道建設にも巨額を投入した。だが、その割には開拓使事業の成績は悪く、その廉価払い下げをめぐる事件は、後に明治14年(1881)政変の契機となる。

開拓使官有物払い下げ事件は、開拓使が薩摩藩出の大阪の政商、五代友厚、藤田伝三郎らの関西貿易商会に北海道貿易の全権を与え、函館の倉庫や東京・日本橋区箱崎町にある開拓使物産取扱所などの不動産を不当に安い値段で払い下げようとした事件である。

開拓使は、北海道、樺太の開拓を目的として明治2年(1869)7月、版籍奉還後の官制改革によって設置され、道路、鉄道、都市の整備から官営工場の経営、屯田兵の配置、入植者の受け入れまで幅広い事業を行ってきた。黒田清隆は翌3年、次官に就任して以来、開拓行政の推進役として重責を担い、明治7年からは長官となっていた。

だが、明治政府は財政難を乗り切るため経費削減策を打ち出し、その一環として官営事業の民間払い下げを押し進めようとしていた。開拓使の事業もその対象となっていた。問題が起こった明治14年は開拓使10年計画の満期にあたり、翌15年(1882)2月をもって、廃止されることが既に決まっていた。10年計画に投入された国費は総額2000万円を超えるとされたが、黒田は開拓使所有の諸財産を38万7000円、無利息30年賦で関西貿易商会に払い下げようとしたのである。払い下げの条件が極端に恩恵的であったこともあって、国民の大きな憤激を呼んだ。民権派や中間派までも巻き込んだ新聞や集会による政府攻撃は2カ月に及んだ。政府はいったん払い下げを承認したが、天皇の下で御前会議を開き払い下げの取り消しを決定した。薩摩閥の引き起こした一大汚点であった。

参考文献:「北海道の歴史」(山川出版社)、「お雇い外国人 建築土木」(村松貞次郎)、「大系 日本の歴史」(石井寛治)、拙書「評伝 工学博士広井勇」。

(つづく)