クラークとの関係

政府は多額の予算を投下し、西洋の技術を導入して北海道の一大開拓を推進するとの方針を示した。明治4年(1871年)正月、黒田はアメリカ向けに出発した。北海道の広大な大地を開拓するにはその方面での経験豊かなアメリカ人の力を借りることが最善であると考えたのである。渡米後の彼は開拓に必要な機材の購入、技術調査、外国人技師・教師の招聘に動いた。黒田は、旧知の森有礼公使とともにグランド大統領やフィッシュ国務長官と会談し、開拓し顧問の招聘に関する希望を述べた。フィッシュからの紹介状を携えて、黒田が森と農務省に局長(長官との表記も)ホーレス・ケプロン(Horace Capron、1804~85)を訪ねたのは、同年4月1日である。2日間にわたる協議の結果、60代半ばのケプロン自身が年棒1万ドルという破格の条件の下で日本に赴くことを承諾した。黒田はケプロンを任期4年の契約で開拓使最高顧問として招くこととし6月に帰国した。ケプロンは、マサチューセッツ州の医師セス・ケプロンの四男として生まれ、南北戦争に北軍義勇兵(将校)として従軍の後、アメリカ政府農務局長に抜擢された。彼は退役陸軍少将であることを終生誇りとした。

契約から1週間ほどした5月9日、ケプロンは旧知の間柄にあるマサチューセッツ農科大学の学長ウィリアム・S・クラークに宛てて一通の手紙を書いた。
「アメリカ駐在公使、森有礼閣下から、ある日本の身分の高い青年にアメリカの最良の教育機関を紹介して欲しい旨のお話があり、これに対してマサチューセッツ農科大学を推薦しておきましたが、これは適切な判断だと考えております。(以下略)」

クラークは南北戦争の時には、北部義勇軍の大佐であった。マサチューセッツ農科大学には最初の日本人留学生内藤誠太郎の後、薩摩藩の湯地定基、野村一介などが学んだ。