児童図書の相次ぐ発刊

昭和30年代に入って、「隠れた偉人・技師青山士」を取りあげた児童図書が相次いで刊行された。

・「放水路をつくったなかま~縁の下の力もち~」(「ことわざ物語 五年生」(昭和31年、実業之日本社刊)。

同書から一部を引用する。

「東京に荒川放水路というのがある。荒川は江戸時代から明治末期にいたる三百年余りの間に百十三回の洪水があり、そのたびに江戸市中は泥水の海になったと記録されている。
また明治四十三年(1910)の八月、台風のために荒川の堤防がきれ、それに利根川がはんらんし、泥水は上野の山下までひたしてしまった。浅草など、腰までつかる泥水の海になったそうである。
それが大正十三年(1924)に荒川に放水路が完成してからというもの、現在まで三十年あまりの間、東京を洪水から守ってきている。利根川は戦後たびたびはんらんしているが、荒川という名前さえわすれてしまうほど洪水をおこしたことがないんである。
荒川放水路工事の最中、大雨の中を、着物のすそをはしょった五六人の人が、堤防づたいに歩いてきた。
「こんな雨の中をいったいどこへいくのですか。」
と、工事現場にいた工夫がたずねると、
「いやおどろきましたよ。こんな大雨がふりつづくのに、ことしにかぎってどうして水が出ないのかと、わざわざ川上までのぼってきてみたのです。水が出ないはずですね。こんな工事をやっているのだから。」
大水が出ないのをふしぎがって、雨の中を川上へ歩いてくる人ものんきなものだが、まったく当時の東京には、荒川が洪水にならないのは、大きなふしぎと思えたほどである。
このように、まい年のようにやってくる大雨にも暴風雨にもびくともしない荒川放水路を、いったいだれが作ったのだろうか。(中略)。
荒川放水路の工事にも、その工事の全責任をおった主任技師があった。
先年の大暴風雨のあと、荒川堤をひとりの老人が歩いていた。かれはまだ濁流が音をたてて流れる岸辺を、注意ぶかく見ながら歩いていた。
この老人こそ荒川下流改修工事と、放水路の工事に主任技師として工事を完成させた、工学士青山士(あきら)氏であった。
かれはいま、年おいて静岡の磐田市に余生を送っているのだが、暴風雨のあとなどにはかならず自分で手がけた工事のあとを、いまでも見てまわるのである。(中略)。
太平洋戦争中、軍部から、
「おまえはパナマ運河を知っているはずだが、あの運河を止めるにはどこを破壊すればいいのかおしえてくれ。」
といわれたとき、青山技師は、しずかに、
「わたしはパナマ運河をつくる方法は知っていても、こわす方法は知りません。」
とこたえたのである。
(以下略)。」(筆者竹崎有斐(ゆうひ))。

・「洪水をふせぐ人びと~荒川放水路をひらいた青山士~」(神戸淳吉作)
(「少年少女世界伝記全集 1」所収の「町や村をまもった人びと」(昭和33年、宝文館刊)。

・「この人に学ぼう」(昭和41年刊、講談社、)第四巻には<平和と正義を愛した技術者>として「水とたたかう」の章に青山が登場する。自らの功績を喧伝しない「沈黙の土木技師」として描かれている点に共通項がある。

東大を定年退官した南原繁が東京から訪ねて来て、県立磐田南高校で講演し、青山家に一泊した。講演は青山の依頼によるもので、南原は講演料を受け取らなかった。青山家での老書生二人は「内村鑑三論」や過ぎ去った青年時代の信仰の友との交流話を語りあった。

晩年の青山に2度面会した河川工学者(東大名誉教授)高橋裕氏は追想する。

「(前略)二度目に訪ねたとき、青山さんが最初にいわれたことは、『技術の発展はまことにすばらしいが、人間形成の面では果たしてこれよいのだろうか』という点であった。むしろ退歩しているのではなかいという心配が本心ではあるまいか。人間形成といわれた内容は、全体のお話から私が察するに、先に触れた責任感、技術者の仕事と遊離しない情操、自己の技術そのものへの生涯を賭ける執念などであろうか。青山さんの場合、これらを通じていえることは、キリスト教的人生観のなかに立派に融け込んだ技術の使命、その天職に没頭して悔いなき人生を送っているという、穏やかな安定感が会話の調子にも、表情にもにじみあふれている」
「現代の日本はふたたび第二、第三の青山さんを要求している。もちろん近日におけるパイオニア・スピリットは明治時代のそれとは内容は異なろうし、誰も青山さんのような宗教的人生観に徹しうるとは限らない。それが何であるかは、後に続く者が今日の環境と自己の鍛練のうちに開拓しなければならない課題である。(中略)ポツンと青山さんはいわれた。現在の心境の一端をあらわすかのように。“生くることは、われにとっては戦うことなり”(Vivere est militare)。(「土木学会誌」昭和37年1月号の「名誉員 青山士氏をお訪ねして」より)。