頌徳碑(鹿児島市内)

教育など大きな成果

久宜の事績のうち、農業と同様全国に影響を与えた教育行政は明治初期に加納自身が教育界に身を置いていた得意分野であり、適切な就学督励により大きな成果を挙げている。知事就任時の鹿児島県は、全国に比して就学率が低く、とりわけ女子の就学率は明治26年(1895)でようやく26%という有様であった。明治30年(1899)の時点で、全国の就学率は66.65%に対し同県は56.30%と低かったが、33年(1902)には一気に88.38%と、全国平均81.67%を越え上位に躍り出る。「鹿児島県教育史」には、この間の状況は「異常な努力による」ものであり、「文部省をはじめ全国から見学者が多数訪れた」とある。市町村費(予算)の過半は教育費が占めており、全国比でも高いとしている。

久宜は小学校の就学率の向上に向け、教員を育成し教育組合の設置を奨励する。その普及を目指して、父母に幻燈で教育の必要性を説得し彼自ら遊説して回った。父母の教育費負担を軽減するため、学具や書籍の共同購入を勧める。女子の就学促進として子守学級の設置や玩具(加納自ら購入)の導入を図った。通学することが生活に直ちに役立つような農業に関する授業を取り入れ、女子には裁縫を教えるなどして、生活に即した魅力づくりを行っている。彼は県私立教育会や加納文庫(県立図書館前身)を設立した。加納文庫は私費を投じたものである。

久宜は小学校の就学率の向上だけでなく、上級学校の整備にも力を尽くした。県内中学校の整備はもちろんのこと、中学校受験者数の多さに対しては、生徒の卒業後の進路を考え、実業教育が有効と判断して、県立の商業学校や女子興業高校といった卒業後の実業に即した学校を設置した。農業振興に向けて、明治28年に鹿児島簡易農学校を設立し、その後順次これを充実させ、明治33年には鹿屋に農業学校(後の官立第二高等農林学校)を移転させ地域の核とした。

第七高等学校造士館(現鹿児島大学)の設立にも尽力している。招致した札幌農学校出の教育者・岩崎行親(ゆきちか、1855~1928)は県立第一中学校校長、第七高等学校初代校長として、県の教育に大きな力を発揮した。岩崎行親は、明治27年、県知事に命じられた久宜に教育と勧業の知事顧問として鹿児島行きを懇請され、鹿児島尋常中学校(後の鹿児島一中)の校長となる。在任は7年余に及び、名門校として伝統を築く。川内(二中)、加治木(三中)、川辺(四中)の中学校の創設に尽力し、創設時の校長を兼務し、鹿児島県旧制中学校「教育の父」となった。さらに明治34年(1901)には、第七高等学校の創立に成功し初代校長となり、11年間その職にあった。知事加納の勧業顧問として米作改良・排水工事・種苗改良などを進言した業績も評価されている。