加納久宜(華族姿の晩年)

藩主から官僚に

鹿児島市内を歴史散歩すると、西郷隆盛・大久保利通はもとより、幕末から明治期に国政を動かした薩摩閥の歴史上の人物の立像・史跡に至る所で出くわす。市内の旧県議会堂近くに、旧薩摩藩出身ではない元知事(華族)の見上げるような顕彰碑(頌徳碑)が立っている。加納久宜(かのう ひさよし)の顕彰碑である。加納が西南戦争後の疲弊しきった鹿児島県をいかに救ったか。その人生と功績を考える。今日の政治・経済政策や教育行政にも示唆するものがあろう。とりわけ政治行政に携わる者の資質を考えたい。

上総国・一宮藩(1万石、現千葉県一宮町)の最後の藩主・加納久宜(1848~1919)は、明治2年(1869)2月、関東の列藩中率先して版籍奉還の建議を江戸城の太政官代に奉呈し、大小の列藩はこれに倣(なら)った。20歳の青年藩主は、大学南校(現東京大学)の開校と同時に入学しフランス語を学んだ。秀才であった。彼は若くして一宮藩知事を務めたが、明治4年(1871)廃藩置県となり藩知事を免じられた。

大学南校の語学教師で、後に文部大臣森有礼(ありのり)の右腕としても活躍し、最初の文部省次官となった辻新次から、人材不足を理由に仕官を奨められた。明治6年(1873)11月、25歳で文部省に仕官した。八等出仕に任官した(今日の文部官僚・課長補佐クラス)。文部省時代には、石川県巡視時に、旧加賀藩以来の士族中心の教育であることを鋭く指摘し、四民に開かれた近代教育へと導いた。静岡、山梨、東京の小学校など合計139校を巡視した報告書は、明快な文章の運びであり、ひと目で分かりやすい表も添付している。彼の持論は四民平等を前提とした教育行政の推進であった。

明治27年(1894)1月、46歳の彼は明治新政府に求められ未知の地である鹿児島県の知事に就任する。日清戦争の最中であった。久宜は明治33年(1900年)9月に辞するまで6年8カ月の長期間、鹿児島県政に尽力する。

着任時の県政界は、明治10(1877)年の西南戦争の後遺症が深刻に残り、吏党と民党の政争が極点に達して県政は空洞化していた。彼は「不偏不党」「清廉潔白」を高く掲げ県人事の公平を図り、県内をくまなく巡視した。離島にも足を延ばして県民と膝を交えて啓発に当った。西南戦争でヒト・モノ・カネを失い田畑も荒廃した県を、一躍模範県に導くのである。「鹿児島県に加納久宜が印さなかった足の跡はなく汗の落ちていない土地はない」と言われる所以である。
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農業県である鹿児島県は、台風襲来や火山灰土壌という劣悪な自然条件に加え、西南戦争後対立が激化して停滞したままだった。大阪の市場では鹿児島産の米は商品価値の低い「劣悪米」の扱いを受けた。久宜は農業改良のために明治27年農会規則を公布した。翌28年(1895)から実施に移し、農村農会から郡農会、県農会を系統的に組織化していった。農家小組合を普及奨励して、3年後には906組合に及んだ。全国に先駆けて耕地整理を実施して湿田の乾田化を図った。徹底した指導の結果、50万tの産米は90万tに増えるとともに、明治35年(1902)頃には、薩摩米の評価は全国第5位にランクされ、大正元年(1912)には2位にまでなって、「劣悪米」の汚名を返上した。

加納知事時代の品種改良、石灰肥料の禁止、正条植え(米の苗を縦または横に一列にそろえて植える方法)普及、肥料作りと農具の製作などの大きな成果であった。この他、ミカンの改良、桑畑の奨励、馬匹(ばひつ、農耕馬)改良、養鶏の勧め、養魚・遠洋漁業の奨励、薩摩焼の改良をはかった。

久宜の足跡は離島にまで及んだ。喜界島の「加納松」を例に取ろう。大島郡喜界島は周囲8里(1里は4km)の孤島、人口は当時2万7000人。明治29年(1896)に島を視察した知事・加納は、煮たきや暖房などの燃料が牛馬のふんを乾燥したものか枯葉であることに気づいた。理由を聞くと「昔から樹木の育たない島だ」という。島は草原ばかりで樹林らしいものがない。だが雑木林は生えているし、土質も本土と差異があるようには見えない。そこで久宜は戸長に植林の必要を説き、帰任早々私費で2万本の松苗を勝って喜界島に送った。これらの松苗は、「不毛の島」の伝承を覆して生成し、村も年々松苗を購入して、やがて松材輸出の離島振興策に発展した。島民は2万本の松を「加納松」と呼ぶようになった。大島のタバコ耕作を普及させたのも知事加納だとされる。久宜は、土木事業も積極推進し、川内の太平橋の鉄筋架橋や鹿児島港大改修計画の確定などを行った。