太平洋の波濤を越えて

ホィーラーは嘉永4年(1851)12月6日、アメリカ北東部マサチューセッツ州ボストン郊外のコンコード(自然の残る田園都市)で、豊かな農民エドウィン・ホィーラーとマリア・ライス・ホィーラーの6男2女の4番目の子として生まれた。コンコードは、イギリス植民地の自営農民が独立戦争(Revolutionary War)に立ち上がった地として、また著名な文学者や哲学者を生んだ知的レベルの高い地として知られる。信仰の自由を求めてイギリスから渡って来た初期開拓民の末裔ホィーラー家は敬虔なプロテスタント系キリスト教徒で、コンコードの指導的名家であった。ウィリアムは年少の頃から聡明で、16歳で新設されたばかりのマサチューセッツ州立農科大学に入学した。最年少の一期生だった。

ここで彼は学長ウィリアム・クラークと宿命的なめぐり会いをした。ホィーラーは勉学と文芸にひいでた秀才で、学業以外に、自作の劇を演出したり、学内紙の編集に携わったりして多才な能力を遺憾なく発揮した。その一方で、学生の処遇問題をめぐってストライキを指導し学長クラークと対立することもあった。卒論“Civil Engineering as Applied to Agriculture”(農業に応用した土木技術)には、彼の人生の方向が示唆されている。人類の福祉向上を目指した<水の技術者(農業土木技術者)>を天職とするとの決意が示されている。卒業後は州内の水道や鉄道の設計施工に技師として従事した。その後、ボストンに設計事務所を開設し、水道敷設、河川改修、橋梁建設などの事業に携わった。

太平洋を隔てた日本では、明治政府が北海道開発を急務に掲げた。そこで札幌農学校を開設することになり、初代教頭にクラークを招聘(しょうへい)することになった。破格の高額給料が提示された。クラークは同行の教官としてホィーラーらマサチューセッツ州立農科大学卒業生を選んだ。若きエンジニア・ホィーラーは郷里コンコードの名家の子女ファニー・ハバードと婚約したばかりでもあった。彼は日本渡航に決心がつきかねた。婚約者ファニーをはじめ長兄ハーベイはむしろ日本行きを勧めた。コンコード在住の著名な哲学者・詩人のラルフ・W・エマソンからは日本政府宛の推薦状も得た。

明治9年(1876)6月1日、クラーク、ホィーラー、ペンハローの3人組を乗せた外輪蒸気船「グレート・リパブリック号」はサンフランシスコを出航し同月29日に横浜港に入港した。航海中、ホイーラーは船酔いにもかかわらず船が嵐にあうたびに甲板に出て大波や船の揺れ具合などを観察した。気象や自然現象に対する好奇心は異常とも言えた。彼は出発時から帰国するまで母メアリ宛てに手紙を送っている。文面は端正で、中には鋭い日本観察も含まれている。