「安全」と「安心」の関係とは? 「リスク」を受容するとは?(イメージ:写真AC)

安全に見向きもしないで安心を求める社会

安全と安心を語る時、その二つの関連性と本質を知っていなければならない。

安全とは科学的立証にもとづくものであり、物理的現実を統計数字によって示すものである。一方、安心は気持ちの問題であり、安全な状態を説明され、その状態を維持継続するためのルールやガイドラインの運用が適切であることを示されて得られる精神的なものである。

つまり、この二つは物理的事実と精神的心情というまったく異なるベースに拠って立つものということだ。

安心させる説明は不可欠だが、不安を煽って安心を語るべきではない(イメージ:写真AC)

安心が社会にとって必要不可欠な要素であることは疑いようがないが、それは安全であることの説明と、安全を継続する仕組みによって成立するものであり、安全であることは大前提である。逆に言うと、安全であれば、安心させる説明や仕組みの構築はある意味必須条件である。決して不安を煽って安心を語るべきではない。

一方で、安全を100パーセント完全無欠としで語ることは不可能であり、統計的数値、つまりリスク観点で一定のリスクは受容することになる。ゼロリスクを社会に求めることはあり得ないからだ。

安全を100パーセントで語れない以上、常に一定のリスクは受容することになる(イメージ:写真AC)

しかしながら、かつて発せられた『安全だけど安心ではない』という迷言のもと、安全に見向きもしないで安心を語る風潮が生まれ、マスメディアもこれに乗っかった。その構造で安心を得るためにつくられたルールが、本当の安心を形成することに役立つわけがないだろう。厄介なのは、この種のルールは人間の弱い心に巣くい、その行動に少なからず影響を与えることである。

未知の問題や危機事態においては、安全自体が手さぐりとなり、不安が先行してしまった結果、対処としてのルールが必要になることは致し方ないかもしれない。ただ、そのようなケースでも、安全に関する事実関係をできる限り調べ、異論も含めた情報を収集し、最大リスクを想定しながらルールを定めるべきであろう。

そのような科学的で論理的なステップさえ踏めれば、たとえ間違ったルールであっても、継続的な検証のうえ、是正されていくだろう。それこそ、PDCAのマネジメントが回る仕組みが正常に機能するからだ。

従って、この正常なマネジメントが機能不全に陥ることが問題の元凶であり、それは不都合な事実から目を背けることから生まれる。まさに、日本におけるコロナ禍はその構造にはまり込んでしまったと考えられる。