ルール策定自体が目的化し、ルールの理由や目的、精神が忘れられている(イメージ:写真AC)

エスカレーターのエピソード

日本のみならず多くの国が法治主義を掲げ、法律が社会生活を営む上での基盤になっている。そして法律まではいかなくとも、ルールやガイドラインが定められ、安全で平穏な生活の礎になっている。

しかしその法律も、それが必要な理由や定められた目的を見失ってしまえば、生じるリスクは計り知れないことはあまり知られていない。法律が必要とされるには立法事実という、その法律を必要とする具体的理由が必要不可欠であり、それを逸脱してしまえば法律自体の意味が失われる。

世の中には数知れずルールが存在するが(イメージ:写真AC)

それはルールやガイドラインも同様である。世の中には数知れずルールが存在するが、その多くがいつの間にか当初の目的を忘れ、ルール策定自体が目的となってしまってはいないだろうか。この現象は、ルールが策定されたことによる安心感で満足し、思考停止が生じ、ルールの精神を忘却してしまった結果に思えるのだ。

筆者がこの状況に直面し、強烈に問題意識を持ち始めたのは、大阪から転勤で東京に引っ越したとき、およそ四半世紀前である。このエピソードはさまざまな場面で語ってきたが、ここでも簡単に紹介させていただく。

それは、エスカレーターでのマナーともいうべきルールである。

エスカレーターは急ぐ人のために右側を空けて左側に乗る。誰もが知っていて、今でも実行されているルールである。このルールの目的は、安全を確保しつつ輸送能力を最大化するため、急ぐ人の利便性も考慮してのものである。

当時の大阪では、エスカレーターは左右無秩序に立ち止まっている人がいて、急ぎの人はジグザクに歩いていた。一見無秩序に見えるが、急ぎの人を確認したら、立ち止まっている人も片側に寄って道を譲るなどの配慮をして、秩序が保たれていた。無秩序がゆえの無言の緊張感が秩序を保っていた、ともいえよう。

片側に寄って立ち止まるのがエスカレーターのルール(イメージ:写真AC)

そういった環境で生活していた人間が突如、東京の整然と並ぶエスカレーターの周辺環境に放り込まれ、驚かされた。人の多さが比較にならないことも一つの要因だっただろう。だが、そのときに筆者が感じたのは、天邪鬼ゆえかもしれないが、むしろ危険であり、輸送能力も大幅に低下させ、混雑を助長しているということである。

確かにエスカレーターだけを見れば、整然と秩序を保っているように見える。しかし、入り口付近は人だかりで押し合いの混雑状態となり、ギャップが激しい。この入り口での停滞が危険な状態になっているだけでなく、急ぎの人もまったく急げない。

私は、なぜ右側にも並ばないのだろうか、と疑問を持った。右にも並ぶことで輸送効率は倍増し、入り口の停滞も多少なりとも解消できてリスクは低減するはずだからだ。