自由民権派・弾圧

三島が福島県令兼務を引き受けたのは、「14年政変」の3カ月後の明治15年(1882)1月25日である。三島、46歳。20日後の2月17日には福島県庁入りした。事態は急を要した。三島の前任県令は山吉盛典(旧米沢藩士)であった。山吉は明治11年(1878)7月25日に福島県令に就任したが、県議会の制度が出来ると、河野広中らの一党に押し切られて、県政は議会の意のままにされるようになった。福島自由党が飛躍する素地が養われた。

福島県議会は弱冠32歳の河野広中が議長となり、福島自由党を掌握していた。福島自由党の結成は、明治14年12月22日とされる。自由民権運動の中核である自由党地方部が福島に結成された時、民権運動弾圧をもくろむ三島通庸が県令として福島に赴任した。三島は、赴任直後から独自の方針を強引に推し進めた。会津6郡の連合会を組織して、3月には連合会を開催し、三方道路開発のための服役負担と施行手続きを決定した。これは、「国庫下付金の懇請許可の上は」との修正がなされたが、路線査定や工事経費の見積もり、予算金等を決定しないまま6郡人民の負担だけを決定したものだった。

政府より国庫金26万円下付という「餌」で釣った。地域開発は、地域住民にとって切望するところであったから、国庫金が保障されれば拒否する性格のものではなかった。結果は、郡内の人民に対する厳しい代夫賃取り立てと、強制労働をもたらした。三島はこの地でも「土木県令」であった。三島は、自ら招集した4月の臨時県議会や通常県議会にも出席せず、自由党との対決の姿勢を鮮明にしていた。河野広中らの自由党員が中心であった県議会は、提出される議案をすべて否決するとの「議案毎号否決」動議を可決させ三島と全面対決した。

会津の三方道路開発が6月から実施され、代夫賃取り立てと工事服役の実態があからさまになってくると、猛然と反対運動が展開された。運動は宇田成一、山口千代作、赤城平六などが中心となり、8月から工事服務反対・権利回復の同盟として発展した。

急速な反対運動の盛り上がりに、三島は危機感を強めた。10月末に県官(職員)海老名一等属と巡査400人さらに自由党に対抗するために組織された帝政党員を喜多方に送り、代夫賃・服務拒否の同盟員に対して財産差し押さえと公売処分を強行し、証拠が固まり次第指導者層を一斉逮捕する方針を指示した。事態は緊迫したが、<鬼県令>は一歩も引かなかった。
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11月24日、反対同盟の中心人物・宇田成一が逮捕され、続いて植田勇知・羽鳥諦呉・佐治幸平ら指導者層が次々に逮捕された。28日指導者逮捕の抗議のため、周辺農村から農民数千人が喜多方に集結し、一旦、塩川街道の弾正ケ原(だんじょうがはら)で集会を開催した。その後、再び喜多方に引き返し、警察署を包囲し宇田らの逮捕理由を問いただした。一触即発の状況下、群衆に紛れこんだ挑発者が投石したのを合図に警察官が抜刀して群衆に襲いかかり、この事件を契機に河野広中をはじめ県下の自由党員を一網打尽に逮捕した。

県令三島は事件の翌日、村上少書記に「喜多方奸民(かんみん)が乱暴したことは好機会故(ゆえ)、関係の者すべて怠りなく捕縛せよ」との旨を電報で指令した。この意を受けて村上は同日、新合(しんごう)村の同盟本部で同盟幹部40余人を逮捕し、さらに「この機会を逃さず自由党の根を絶つべし」との指令を出した。12月1日、福島町の無名館で河野らを逮捕し、ここに福島の民権指導者層のほとんどすべてが逮捕され、組織は壊滅し運動が終焉したのである。

河野らの罪状は、国事犯=内乱陰謀罪であったが、当初主要な証拠としてみなされていたのは、同盟本部の「特別内規」であった。だが、その趣旨内容は「単に道路反対だけでなく、政治の改良を図ることを目的とする」であったから、これでは国事犯の証拠としては極めて不十分であった。明治16年(1883)になって、花香恭次郎の草稿による「無名館盟約」の存在が明らかになり、「政府転覆」の文字があったとの自供を証拠として(現物は未発見)、同年9月、河野広中・田母野秀顕(たものの ひであき)らに国事犯として6~7年の有罪判決が下った。「転覆」の2文字によって有罪となったことから「二字獄」といわれた。