現在の言論空間は公正で自由なのか(写真:写真AC)

今回は、専門家と呼ばれる中でも真正の専門家、学術界における研究者、学者を対象としたい。

学術界に限らず、人間社会においては通常、派閥とよばれる何らかの共通点や共有点を持つコミュニティーが形成され、時には社会的合理性がともなわないで、仲間内の利害関係を優先して物事が進むことがある。人間であるがゆえ、大なり小なり自然であり、これをすべて悪とはいえないだろう。

しかし、度が過ぎるとコミュニティーは既得権益化し、組織腐敗を招くのも道理。原理主義にまで発展し、自分たちを絶対正義として異論排除にまで至る。こうなると、もう悪といってもよいだろう。

反対できない風土は、政界では独裁につながり、企業では社内風土の劣化によるコンプライアンス問題の元凶となり、学術界では学術的発展の阻害、非論理的で偏向した学説流布のリスクが高まる。

派閥にそぐわない異論を排除(写真:写真AC)

ここでいう偏向学説流布は、中世でいえば宗教が科学を上回る思想統制に近しい。さすがに現代において自然科学の分野ではそこまでではないかもしれないが、社会科学と呼ばれる分野、何が正しいかが存在しない分野、文系分野では、派閥による思想統制が現実問題といえるように思えるのだ。

学術界派閥による問題実例

筆者はかねてより学術界の偏向性を問題と感じていた。政治、経済、憲法、歴史、社会学など、本来さまざまな論があって然るべきなのだがそうならず、異論が異端視され奔流となれない。そこに重要な視点が抜け落ちているように感じていた。この考えは、けっして筆者だけのものではない。

井沢元彦氏著の「逆説の日本史」シリーズで、歴史学者の問題点が解説されている。一読されることをお勧めするが、歴史学者は専門領域を「何時代」などと狭く限定する性質が強く、それがゆえに歴史の流れという大局的な視点が欠ける傾向があると指摘している。

そのため、通史という視点での歴史観において示される日本人の思考回路の特徴、長短を前提とした考察が欠落し、極めて短い期間の部分最適思考による考察が多く、ある意味常識レベルの人の判断基準や思考の基盤となる宗教的な背景などが欠落する誤謬性が顕著であるという。

また歴史学者は資料第一主義がゆえ、資料に書かれていないことはなかったことであり、書かれていることは、当然複数資料の裏付けが前提ではあるが、真実とされることにも弊害が生じるとしている。

「歴史に学ぶ」というが(写真:写真AC)

これは、直感的には首を傾げるかもしれないが、その時代に資料に残される背景、書けなかった背景などを無視はできない。価値観は現代とはまったく違い、正義や悪の判断もまったく違う。科学技術知見も根本的に異なる。つまり、その時代の偏向情報となり得る資料の文字面だけでの判断は危険なのだ。

考えてみてほしい。戦時中の言論統制下でのプロパガンダは正しいのだろうか。政権交代し前政権を批判し自政権を正統化する資料は、書けることと書けないことが存在するのは当たり前ではないのか。