写真提供:神戸市

本稿の前編は以下から↓
■Oral History 阪神・淡路大震災 経営者の証言から読み取るBCMの本質 (前編)株式会社ノーリツ/株式会社神戸ポートピアホテル

http://www.risktaisaku.com/articles/-/463

Oral History03 理事長の任務は被災者の救済ではありません

甲南学園 理事長(当時) 小川守正氏 
聴取日:1999年11月8日

編集部注:本稿は「リスク対策.com」本誌2015年1月25日号(Vol.47)掲載の記事を、Web記事として再掲したものです。役職などは掲載当時のままです。(2017年1月17日)

甲南大学がもうもうと燃えている 

家全体がきしむような音をあげて、これは倒壊するなと覚悟しましたね。揺れが終わった時は本当に助かったと思いました。もちろん、テレビもつかない。電気もつかない。そのままやれやれ助かったと思って寝てしまって、7時20分に部屋の隅っこに飛んでいた目覚ましが鳴ったので起きました。 

ふと思って窓から見ますと周りの家が道へ倒れて道を塞いでいる。それから甲南大学がもうもうと燃えている。学校まで走って行きました。そうすると理学部が燃えているので東灘の消防署に電話しました。どういうわけか学校の公衆電話が通じたんです。そうしたら「何言うとるんですか。消防署の周りは火の海ですよ。あんたの大学でしょう。大学なら自分でやってください」とえらいけんまくです。それで屋上に上がってみると消防署の辺りはもうもうたる煙で、これは大変だとそのとき初めて思いました。 

自分で消火作業をやったり、動いている時は自分が働いている感じで意外に元気でした。ところが一応応急処置を終えてほっとすると校舎もほとんどつぶれている。次から次へ学生の犠牲者の報告が入ってくる。そのうち私の親戚も2人死んだという知らせもありました。2~3時間はどうしてよいか分からない混乱状態になってしまいました。 

出勤者は学校の近くに住んでた先生と職員が10人くらいで相談相手もいません。地震がもう3時間ほど遅かったらこの校舎に1万人の学生(芦屋の中高を含めて)でいっぱいになります。そうなるとおそらく数百人の学生や先生方が犠牲になったかもしれない。そうでなかったことだけが救いだと思いました。

授業を4月からやらなければ 
2時くらいになって災害対策本部をつくりました。そこで1人になって考えると、今まで消火作業をしたり煙突を固縛したり走りまくってきたけれど、私はここの理事長だったんやと。理事長の仕事は何かと反省しました。それまでは災害現場を目の前にして走り回らずにいられなかった。走り回っていると楽なんです。 

教室が全部つぶれ、残ってたのは体育館と学生会館、図書館とそれから先生方の研究室だけです。財政困難もあって教室の建て替えが後回しになって、戦前の建物もだいぶあったんですね。そういう意味では地震で甲南の教室が全壊したのも半分は人災であったなと思っています。誰も災害でつぶれることなど夢に思ってもいなかったのですね。

しかしそれよりも、2月半ば頃には入学試験をやらなければならない。それから4年生を卒業させなければならない。授業を4月からやらなければならない。理事長としてどう対処するか。いくら考えても混乱して考えがまとまりません。堂々巡りの連続です。頭が空白状態ですね。私学ですから、よその大学に生徒を引き取ってくれとか、教室を貸してくれとかいうわけにもできません。とにかく入学試験を2月中旬までにやらなきゃならない。それから4月から授業をやらなければ。どちらかができなくても甲南は潰れると思いました。 

大林組と竹中工務店に人を走らせて、きてもらいました。いろいろ話を聞きますとプレハブの仮設校舎というものがあると知りました。小、中学校が建て替える時の一時利用のものです。「大学にはちょっと無理でしょう」と言うのを「いや、机が入るなら何でもいい」ということで「工期は1月中、あと2週間だ」と言うと仰天しましたけど、そうしないと学校は潰れてしまう。倒壊や損傷している建物は放っておいて、運動場に建てることにしました。

まず、1月中に6000㎡を建てて事務所を開設し授業と入学試験をやる。後は3月20日までに完成し4月から全学の授業をやるわけです。地震の当日にこれをやって甲南は潰れずにすんだと今も思っております。というのは2日も遅れていたら資材が散逸してしまっただろうと後で分かりましたから。 

翌日の朝から運動場に縄張り杭打ちをして3日目にコンクリートの基礎を築き、4日目から建設にかかり1月中に約6000㎡の校舎が建ちました。

甲南大学に避難せよ 
ところがもう1つ難事が生まれました。区役所が勝手に「山手の甲南大学に避難せよ」と指示したらしく、自主避難に加えて、翌朝に運動場の半分くらいが避難者のテントと車で占領されていたのです。皆さんに立ち退いてもらわなければなりません。必死になって説得し雨天体操場に避難所を設けることを条件に承知してもらいました。 

地震の翌日に区役所から人がきて「甲南大学でも避難者を40人ほど引き受けてもらえないかと」との話はありました。40人くらいだったら応接室でも入れたらと引き受けました。そうしたらその晩に1200人になっちゃったんです。夜なので建物が傾き危険状態になっているのが分からない。縄張りをして入るのを阻止するのが精一杯でしたね。もし、倒壊している校舎に避難者の方が入ってそこで二次災害が起こっていたら大変なことになります。

災害時の指揮系統をつくっておく 
応急措置は乗り切りましたが、神戸市の避難所に指定されてなかったものですから、救援物資が全くないんですよ。食料はもちろんのこと、毛布とか救援物資が全くないのです。私は区役所に交渉に行ったんです。そしたら区長さんは「甲南に1200人も送って誠に申し訳ない」と平身低頭謝って。そのうちこちらが一生懸命話してるのに下を向いて黙ってしまう。腹を立ててひょっとみたら、眠ってるのです。その区長さんは地震発生から3日間不眠不休でね。体力の限界を超えて指揮能力がなくなってしまってた。ああいう時はどんな組織でもトップが自分の健康を維持して健全な頭を維持しないと駄目ですね。指揮能力がなくなる。 

いざとなった時に誰が責任者でその次は誰、その人が出てこられなかったら誰と少なくとも3人ぐらいで相談できるような災害時の指揮系統をつくっておくことが必要だということです。広域に災害が起こったら、どんなに立派な理事長さんや学長さんがおられても、こられなかったらどうにもならないですからね。先ほど申し上げたように災害はどういう困難が発生するかわからない。この辺が非常に難しいことだと思いました。

私学としての任務 
私学の理事長の任務は何かというと、被災者の救済ではありません。目の前に被災者がいればそれを助けるのは私学であろうと人間であろうと当然のことですけれど、ちょっと長いスパンで物事を考えたらそうではありません。私学は学生から授業料をいただいて、その代償として授業を含めた諸々のサービスをしているんだから、その任務を放棄することは許されない。それがやはり基本だと思いますね。 

ただ、「うちは私学だから避難者は収容しません」と言って地震と同時にびしっと鉄門を閉めてしまったところがあるんです。いかにそれが正しいことであっても批判が起こりますね。一般の市民は私学も国公立も中学も大学も区別がないからですね。そういう非難を被るようなことはしてはいかんと思うんです。 

ですから私は一方で神戸市に2月中に1000人の被災者を引き取ってくれときつく交渉すると同時に、4つある門を四六時中開いて「いつでも夜中でも来て下さい」と貼り紙を出しました。やってることは矛盾していたわけですね。それで神戸市はあの理事長はいいかっこして、うちにきてはえらいきついことを言って、と怒ってましたけれど(笑)、それはやはり組織のトップとして守らなければいけないと思うんですよね。

トップの危機管理 
トップというのは、できるだけ応急処置をして、本来の使命に変える手を打たなければならない。それがトップの危機管理だと思います。トップはあまり細かいことを自分でひっぱって走り回っていると疲れてしまい、駄目になります。ですから3日目くらいから、出てきた人に「この仕事はあんたの責任だ、頼む」と言って、学生に対してでも「避難者の世話は一切学生の自治委員に任せるから頼むよ」というふうにして本来のトップの仕事に力を注げるように心がけました。 

安否確認は大変だったですね。名簿が全部、瓦礫の下に入っちゃっているものですから。だから、学生が申告するのを待たなくちゃならないんです。

大学の復興 
やるからには日本一のものをと思って。震災後の教職員のベースアップは2年間我慢してもらい、経費も少々乱暴でしたが3年間30%カットして建物に注ぎ込んだのです。これは、もしも地震が3時間遅かったら何百人単位の死者が出たであろう、という恐怖心が生み出したものでもあります。