カスリーン台風で水没した埼玉県栗橋町(当時、出典:Wikipedia)

1日半で年間総雨量の4分の1

今から70年前の1947年。南太平洋に発生し弧を描いて北上して日本列島を襲う台風は、英語圏の女性名がアルファベット順に冠せられていた。猛威を振るう台風が英語圏の女性名。打ちひしがれた敗戦国の国民に、この厳粛な事実を知らしめたのがカスリーン(Kathleen)台風であった。

この超大型台風は「カスリーン」と発音に比較的忠実に記されることはまれで、「カスリン」「カザリン」「キャスリン」などとまちまちに呼ばれ報じられた。様々な異なった表記になったこと自体、敗戦による占領下の混乱と台風直撃の大災禍の凄まじさを物語っているように思えてならない。

15年間もの長くて暗い戦争は1945年8月、無条件降伏という無残な結末で終わった。「三等国」に転落した日本はGHQ(連合国軍総司令部)に占領され極貧にあえぐ「飢餓列島」となった。敗戦から2年経った1947年。日本は廃墟の中から立ち上がり復興の足掛かりをつかもうと必死であった。

一方、マッカーサー元帥を頂点(最高司令官)とするGHQは、日本国内の武装解除を急ぐとともに、矢継ぎ早に民主化政策を日本政府に押し付けた。言論の自由、政治犯釈放、財閥解体、公職追放、農地改革、教育改革…。そして何よりも日本国憲法の発布。内務省はGHQから目の敵にされこの1947年末で解体を命じられた。

GHQ気象観測隊によってカスリーンと命名されたこの年11番目の台風は、9月13日、硫黄島の西方海上を北上し続けた。その頃、本州の南海上に発達した温暖前線は台風の北上に連れて次第に活発化しはじめ、大雨を降らせながら台風と歩調を合わせるように日本列島に接近した。

関東・東北地方の太平洋側は暴風雨にさらされた。沿岸部には山のような大波が牙をむいて押し寄せ、漁船の沈没が相次いだ。東京都をはじめ埼玉、群馬、栃木、茨城の関東各県では1910年夏を上回る大水害も予測されるとして厳戒態勢を敷いた。

15日夕刻、台風は新島付近を通過し、その後やや速度を落として房総半島南端を通過した。翌16日午前、千葉県銚子市の東方海上に移り、三陸沖から北海道南東の海上に去った。カスリーン台風は、風速が弱く雨量が異常に多い典型的な<雨台風>だった。

今日確認できる資料によれば、9月14日昼から15日深夜にかけて、秩父連山や北関東の山岳部を中心に年間総雨量の実に4分の1の豪雨がわずか1日半の間に山野や田畑、それにバラック住宅が肩を寄せる市街地などを叩き続けた。それはあたかも聖書のノアの洪水を思わせる地獄絵であり、明治期以降の観測記録にはない未曽有の集中豪雨だった。

渓谷や急流河川を抱える群馬県内は惨劇の連続であった。山岳地は戦時中の乱伐により裸同然で保水能力を失っていた。がけ崩れが相次ぎ、鉄砲水が村落を襲った。堤防はズタズタに引き裂かれ、農家は押しつぶされ流された。救いを求める叫びが谷間に響いたが、救いの手を差し伸べられる村人はいなかった。大豪雨は利根川水系に大洪水をもたらした。

流域住民は横殴りの雨が降りつける中で、懸命の土のう積を続けた。しかし荒れ狂う自然の猛威の前にはむなしい営為でしかなかった。深夜に渡良瀬川の堤防が次々に切れ激流が民家をなぎ倒した。繊維産業で栄えた桐生市や足利市は暗闇に濁流が一気に駆け抜け、見るも無残な廃墟と化した。再興不能とまで言われた。